ゲーム


たとえばここに文章を書くという事が、自分にとってはある種のゲームなのかもしれない。それはとてもシンプルなルールのゲームで、ルールはひとつだけで、それは「やめてはいけない」という事である。


つまり「やめる」事さえなければ、何をしても良い。いっぱい書いても良いし、一行だけでも良い。写真でもコピペでもリンクでも政治経済についてでも芸術についてでも日常の瑣事にかんする事でも、何でも良い。それこそ極端な話「やめてない」事実を自分なりに確保できてさえすれば、表面的には「やめてしまっても」構わないとさえ言える。そこまで行くと、ほぼゲームの意味がなくなるし、まだそこまで追い込まれていないので、それはやらないが。


単に、今日の天気とか、起きた時間とかだけを記していくだけでも、もちろん良い。しかし、これも上記同様、まだそこまで追い込まれていないという自覚があるので、そこまでは至っていない。ゲームとは、たしかにルールを破らなければそれで良い、というシステムだろうが、しかしルールを破っていないだけ。という参加の仕方は一番貧しい。ゲームとは、ルールを遵守する、という共有目的がぶら下がっているけど、本質的にはゲーム全体をどのようなフレームとして捉えており、その中で私がどのように振舞うか?その振る舞い自体をどのようにデザインし得るのか?こそが求められているのであって、その意味でいけば、通常のプレイ時にはルールの遵守など当然の話で、それどころか今私の振る舞いがゲームプレイなのだ、という事すら、自他共に意識されていない状態というのが理想的なのだ。であるから、最低でも毎日書かれる文章は、それが書かれなければならない、という抑圧など微塵も感じられないようなものであるべきだし、やめろと言われてもどんどん書いてしまう、くらいに感じられる必要があるので、そういう文章ばっかりだと当然書いてる本人が一番うんざりしてくるので、そういうセルフケアも行いつつ、何とか上手いこと自分をごまかしつつ、どこまでも新しいダンジョンへとコマを進めるのだ。


「やめてしまう」ギリギリ一歩手前のモードに移行するワザは、ワザとしては比較的ポピュラーな物の範疇だと思われるが、今の自分がそれをしてしまうのは、今の段階ではあまりにもリスクが高すぎると言えよう。(でも、そのスタイルで、つまりほとんど惰性みたいに一行か二行書いてるようなスタイルの文章で、驚くほど魅力的な魅惑的なものもあるのだ。あれはほんとうに見事だよなあ、あの境地に行きたいなあと思わされるような文章というのは、ある。逆にいうと、あそこまで上手くないと、自分などには支えられない、難易度の高いワザなのだ。)


まあ、こうして毎日のように書いてると、たまに、もう言わなくてもわかっているようなことをことさら大げさにくどくど書いたり、前後の流れに背中を押されただけでずるずると長くなったりする事の、自分の未熟さゆえの脆弱性が後から自覚されはじめたときなど、身体的な苦痛に一晩中苦しむのと同じような悶々とした苦痛に苛まれることもある。さすがにもうそろそろ、年貢の納め時ではなかろうか?こんなことやってて何の意味があるのだろうか?などといったような、これまた手垢に塗れたような自己嫌悪的な自省が飽きもせず胸中に去来するのである。何をかくそう、こういうときが一番、「毎日一行だけお天気を記す」に強く魅了される瞬間だ。もうそろそろ年金生活でいっか、とか考えてしまうときもある。。


とはいえ、もちろんそれもまた、このゲーム特有の、むしろ極めてありふれたトラップに嵌っている状態であって、そのような意識に苛まれることなど、あらかじめちゃんと予測して対策をうってあるからこそ、自分は一応プレイヤーの末席を汚しているのだ、とも思う。だからまだまだ、自分はプレイできるのだ、と自分に言い聞かせ、水で顔を洗ってタオルでゴシゴシと顔を拭き、ふーーっとため息をついてややさっぱりして、あらためてその不可視のフレームとそこに立つ自分をイメージし、再度頭の中で捉えなおす。