道具を使う


道具を使うというのは、最初だけは道具の都合に自分の方を合わせないといけない。最初に限っては、目的や要求事項をよく理解しているのは自分ではなくて道具の方である。道具とは道具であると同時に、目的から逆転写された手順の記憶装置でもある。


システムに対してひとまず自分を投げ入れてしまう事に、人間はある喜びを見いだす。自分の身体の一部がすでにあるややこしいシステムの一部なのだという事でつなぎ止められる精神的な整合感というのがある。人間にとっていちばん安らかな場所が、人間とシステムとの中間の地帯にある。


大昔の原始時代に、人間が火を使う瞬間には、火がそもそも、何を知っていて何を目的にして存在していたのか、それはわからない。人間と火は、何万年ものあいだ、別々にそっぽを向き合ったままそれぞれずーっと存在していても、いっこうにかまわなかった。でも、ただ火を使って加工したり破壊したりする事に、なぜか価値があるという事になった。それを決めたのは火の方なのか、人間の方なのか、ここが微妙なのだが、でもとにかく、ひとまず人間の方が、その仕組みに自分の方を合わせてみたのは確かだろう。


よくわからないが、少なくとも人間は、もし使用方法を誤ると自分の生命さえ死に至らしめるような、リスクの高い道具を駆動させる事がかなり好きであり、それはもしかすると人間の本能に基づいた根元的なもので、人間というのはもしかすると平然とそういうリスクをモノともせずに、相変わらず道具を道具自体の限界まで猛り狂わせるような生き物なのではないか?という気もする。


おそらく目的とか利便性とか効率とかは、人間が道具を必要とする理由ではないのだ。そういうのは人間の内側でしか通用しない話だからだ。目的とか利便性とか効率とかは、たぶん既に道具と人間が関係を結んでから、後付けで出てきた話であろう。人間が道具を使う本当の理由というのは、実はその道具自体を壊す事なのではないか?その道具を壊すことで、逆の方向から目的をかなえようとしている、というか、その道具にある箇所から転写されて記憶されているなんらかの意味合いらしきものを、剥がそうとしているのではないだろうか?