セザンヌ


横浜美術館セザンヌ展を観る。セザンヌにおいては、おそろしく細かい単位で、解決と未解決がせめぎ合う。解決と未解決はそれぞれ自律しておらず、相互干渉が無限ループしていて、解決と未解決が相互にぶつかり合い、連鎖が連鎖を、依存が依存を呼び、すべてがスパゲッティのように絡み合い、オーバーフローの一歩手前で、かろうじて体面だけを保っている。「100本の矢をいっせいに放り投げて、それらが地面に落ちるまでの間に、たまたま偶然、奇跡的に、100本すべてが一瞬だけ、すべて同じ方向を向いた状態」という言葉があったけど、それに近いかもしれない。とにかく緊張感が空間をいっぱいにしていて、振り切れるほどのパワーで、最初から最後まで人間のことなどお構い無しに、何事かの演算処理がガリガリ計算され続けている。それらをただ観るしかないし、ほとんど、あきらめるしかない。


セザンヌが景色をみる。二本の木の間に平原が広がっており、その向こうには白い壁の家屋があり、もっと向こうには木々や山々があり、さらに、空がある。セザンヌはそれらをみる。それらをみるというのはつまり、それらのうちのどれかをみている。そして、そのあと、ブランクをはさみ、また別のなにかをみている。そのただひたすら続く、あてどなき過程である。それらの一切が、人間の記憶能力をもって記憶されて、やがて、同じ人物によって、絵を描く準備がなされる。


何かをみて、やがてふたたび、べつの何かをみる。それら一連のことを、記憶しており、それをあとになって、思い返してみる。そのとき、そこにはおそらく、「二本の木の間に平原が広がっており、その向こうには白い壁の家屋があり、もっと向こうには木々や山々があり、さらに、空がある。」という事ではすまない何かがある。


セザンヌはおそらく、あたえられた可能性の中で、とりあえずアレをみた、その衝撃を描き、かつ、その後でコレもみた、そのときの衝撃も、一々全部描く…みたいな、そういう一つ一つを大事にしましょう、みたいなハナシをしている訳ではない。


とにかく、わっと全部みている。一挙にすべてを感じている。それで、そのわっと一挙に全部みた感じを、そのまま描ければもちろん最高なのだが、いくらなんでもそれは無理なので、しかしとりあえず、その感触に拮抗するだけの行為を画面に生じさせるとすれば、ひとつ有効に思われるやりかたがあの「ズドドドドドドドドド」と世界全体に響き渡るかのような、あの強烈なソニックで振動させる小刻みなタッチである。ひとまずその強烈な振動性だけは確保させる。それを響き渡らせる。


この箇所を描き、そのあとで、やがてふたたび、べつの箇所を描く。それら一連のことを、全体的にみる。その印象と、実際にみたときの印象との、恐ろしいほどの落差を感じる。


しかしその落差は自分が世界ではじめて感じたものではない。偉大な巨匠を思う。ルーブル美術館のことを思う。プッサンドラクロワのことを考える。道しるべを見出して、それに力を得て進む。茶色と緑と青のタッチが折り重なって、ある空間が生じようとするとき、自分が見たこととの落差と、ルーブル美術館が指し示してくれるものとの間で、そこにもう一層新たな強い緊張が走る。


描かれる部分と描かれない部分がある。知覚・認識の度合いが表象されているようでもあるし、描くことの困難さ・難易度の度合いが結果としてあらわれたようにも思える。しかしそれが知覚の度合いだとすれば、描かれた場所はより強く「理解」できたという事か?描かれている場所は「中景」に多いように思われる。近景および遠景は、空間が安定的に定着される事を注意深く避けられているようだ。もしかすると、むしろ描かれていない近景に対する知覚や認識の方が、より強烈なもののようにも感じさせられる。


セザンヌは絵画を革新した、というのは事実だろうが、おそらく描いてるセザンヌ本人にとって、絵画はとても安定した、信頼にたる、どっしりとしたシステムだった。自分の腕力くらいでは、絵画は揺らがないことを知っていた。場合によっては描かず、場合によっては描き、そのように振舞う事を、ほかならぬ絵画自身が、許してくれると確信しているかのかもしれない、と想像する。


それこそ、近景と中景と遠景みたいな、そういうわりと単純な制度的区分けにセザンヌは結構平然と依存してるところがある。むしろそれをちゃっかり心の支えにして、あとはもう無茶苦茶に画面を猛り狂わせる。もっとどこまでもやれる、と思うから、やる。ガクガクと揺るがす。そのタッチのすさまじい振動力。あるいは全体がほぼ塗り込められたときの、しっとりと透明に透き通っていくかのような、あの深み。。そのとき強く感じられるのが、あの独特な「青」の効果をセザンヌは猛烈な勢いで信じている、という事で、結果的には青の担わされる空間性が、事後的に近景と中景と遠景の抽象性を浮かび上がらせる。しかしそれは絵画の深い歴史であり、その抽象的な歴史性の深海のような深さに、セザンヌがそれらをひとつひとつ引っ張り出してきて、自分の力でまた再配置している事を感じて、また改めて感動させられる。


セザンヌ婦人の顔を向かって左からじっとみる。その頬やまぶたや口元をみる。髪の生え際をみる。耳の後ろ側へと流れる毛髪のかたまりをみる。向こう側の頬とその向こうにある壁の色との境目をみる。そのせめぎあいをみる。それらひとつひとつの「みる」がそれぞれ別個でしかない。人物だと風景や静物とくらべてひとつひとつにより「感情」が含有されるので、余計に別個になってしまう。というか、もはや、みた事しか描けないので、みたことは描くのだが、みてないものは描けない。セザンヌの描く人物の、人体解剖学的な見地から見た「間違い」は絶望的なほどで、セザンヌ婦人は後頭部の量感も背骨の突っ張りも腕の筋肉も有していないのだが、でもそれはみていないのだから、無いに決まっているのだ。逆に、あったら、おかしいでしょう?というか、ある事のあるという事実だけで、世界ができている。それが世界だろう。襟元の衣服の白さこそが、ある、という事でしょう。


ラム酒の瓶のある静物」という絵は、これはもはや、異常である。いくらなんでもこれは、神様がお怒りになるであろう。こんなものを描いてはいけない。本気でヤバイところに足をかけている作品である。絶句するしかない感じ。


セザンヌのほかにも沢山の画家の絵がある。僕は安井曽太郎も前田寛治も中村彝も好きだけど、さすがにこういう展覧会でセザンヌと同じ壁に掛かってるところを観たいとは思わない。正直、セザンヌ観てるんで悪いけど邪魔しないでくれ、としか思えない。なのでこういう展覧会趣旨はどうなのかと思う。まあ僕に限らず、たぶんほとんどの人が、セザンヌを観るだけでエネルギーのほぼ全てを使い切ると思われます。