学習


お客様の立場になって考え、あたうかぎり最善の策をご提案する。少しでもよろこんで頂けるための努力を、日々惜しまない。社内では影で人を支え、縁の下で力瘤を硬くし続けるような立場を自ら進んで受け持つよう努め、常に効率的で無駄なく何かが何かの役に立つように計らい、すべてを有機的にむすびつけて因果を想像し、そのつど五感で感じて、そのつどあらためて考え、とにかくベストを尽くして仕事をするという事。


それさえすれば、組織に対してより多くの利益をもたらすことができるし、そうなればおのずと、会社からも私という人材を評価してもらえるし、益々一層必要とされるだろうし、あらゆる事にWinWinの関係が築けるはず。出世とか報酬とか地位とか名誉とかって、そういう事の積み重ねでおのずと手の内に入るようなものだと思う。…いや、もちろん現実はそう甘くはない。様々な障壁やトラブルがあって当然だし、たまには失敗もあるだろう。でもそれにくじけずまっすぐに努力を重ねていく事が大事なのだ。その歩みを決して止めないことだ。


美術を、自分の欲望を表出する手段にするなんて間違っている。私が行う美術という営為とはいったい何なのか?それを突き詰めて考え、客観的な冷静な態度で美術史を学ぶと同時に、鑑賞してくれる人の立場になって考え、あたうかぎり最善の策をご提案する。少しでもよろこんで頂けるための努力を、日々惜しまない。美術史のこともお客様のことも、決して裏切らない姿勢を貫くという事。そして、同じように制作に励んでいる周囲の仲間の役に立つように、なるべく影で人を支え、縁の下で力瘤を硬くし続ける立場でいるように努め、常に効率的で無駄なく何かが何かの役に立つように計らい、すべてを有機的にむすびつけて因果を想像し、そのつど五感で感じて、そのつどあらためて考え、とにかくベストを尽くして仕事をするという事。


それさえすれば、美術の世界により多くの豊かな収穫をもたらすことができるし、そうなればおのずと、美術界における私の作品価値も評価してもらえるし、益々一層必要とされるだろうし、あらゆる事にWinWinの関係が築けるはず。出世とか報酬とか地位とか名誉とかって、そういう事の積み重ねでおのずと手の内に入るようなものだと思う。…いや、もちろん現実はそう甘くはない。様々な障壁やトラブルがあって当然だし、たまには失敗もあるだろう。でもそれにくじけずまっすぐに努力を重ねていく事が大事なのだ。その歩みを決して止めないことだ。


というわけで、昨日まで会社経営をしていたのだが、ついに破綻してしまい、本日ついに、自己破産しました(うそ)。頭の薄くなった小太りの小心そうな管財人がやってきて、資産整理で、持ってるものは全部債権者に分配されて、家も土地もクルマも全部なくなって、あれよあれよというまに、完全に何もかも失った。まさに文字通り、命だけはお助けいただいた、という感じ。こんな丸裸な気分は学生のとき以来だ。いま、湿気が多くて薄暗い木造のアパートに妻と二人でいます。妻はうつむいているが、その態度にさほど悲壮感はない。妻があまり変わらないでいてくれるのが唯一の救いだ。


唯一の救い。というか…でもこれってむしろ、これで良いといえば良い感じだ。繰り返すけど、まさに学生時代に戻った気分で、妙にわくわくしているところがある。。…何もかも失って、着の身着のままで、食事もしておらず今日寝る布団もない状況で、こうして薄暗い木造のアパートの湿った畳に座っていると、無茶苦茶リアルにその疼くような期待感を感じる。しかしこの、妙にさわやかな、不思議なくらいの爽快感はなんだろう?まるで、朝焼けの鮮やかなブルーに変わりつつある空を眺めているときのような、まったく何もない、空っぽの、せつないような、嬉し泣きしたくなるような、この不思議な喜びは一体なんだろう??


絵を描くとか文章を書くとか音楽をつくるとか何かを言語化するとか、何でもそうだけど、それらの行為が、出世とか報酬とか地位とか名誉の代替なのだとすれば、要するに「正解」の代替なのだとすれば、そんなのはツマラナイと思います。価値の裏打ちがなくて、価値を有する見込みも無いものだけが面白いのだと思います。作品をつくる行為は、あなたや私が構成する社会の中ではおそらく「行為」に値しないでしょう。というかある意味、そう簡単に値させてはいけないとさえ思う。そう簡単に、役立たせるな、と思う。評価も査定もする必要なし。有用か無用かの判断もとりあえずする必要なしだと思う。そういうモノの言い方をする必要が、とりあえず、なしである。


絵を描いたり、絵を観たりするとき、それが「自己破産」と同じような経験であれば最高だろうと思う。そうありたいし、それを目指したい。まあ、言うは易しだが…。


自分がこうだから、相手も大体同じように考えるだろう、あるいは考えないだろう、という浅はかな考えを完全に捨てるのはとても難しい。それは他者への配慮とか優しさではない。それは単なる自己中心的な滑稽な空回りであろう。それを捨てた状態、というのが「自由」って事なのだろう。「自由」というのはある意味「普通」って事なのだ。だから「普通」になるのが、まず何よりも先に必要だ。相手に無遠慮に共有を強要するのではなく、かといって最初から相手を疑ってかかるのでもなく、ほんとうに「普通」な態度が必要だ。しかしおそらくその「普通」を得るには、知性が必要で、知性を養うためには、学習が必要なのだと思う。美術学校とか音楽学校とかで学ぶべきことというのがあるとしたら、それに他ならないのではないかと思う。


人間は基本的にうつくしいものを好み幸福を希求するという性善説を信じているが、それでもその本能だけで社会へアクセスして、物事が上手くいく事はないと思う。やはりどうしたって学習は必要なのだ。なので僕も日々学びます。うそ。まあ大体、適当に気楽にやります。