最近観たもの


とりあえず最近観た展覧会の中では乃木坂の新美術館にてArtistFileというグループ展での金田実生のドローイング「空とバラの31日」が素晴らしく、かなり感動した。これを観れただけでもよかった。そのほかの作家にも面白いものが多かった。あと、結構前のことになってしまうが、神奈川県立近代美術館鎌倉別館で3月まで開催していた関合正明展も良かった。超・地味。しかも超・昭和、日本、洋画、という感じなのだが、これが見ていて超・はまった。これを観ることができてよかった。大きなインスピレーションを受け取る事ができた。


風景が中心で、全体的にくすんで濁った色彩が引っ掻き回されて、形のキメは黒の険しい線描でところどころびしっと決める、みたいな基本作法はまさに如何にも日本近代洋画で、須田国太郎的でもあり佐伯祐三的でもあり、それがもっと地味になった感じではあるのだが、そんなぱっと見の印象などどうでもよく、とにかく絵画というものは要するにこういうものである、と、強く突きつけられた感じというか、いや、それほど一方的で単純な強さではなく、むしろまったく地味で、実に頼りない佇まいの、あまりにも古めかしい趣味の範囲内におさまっている何てことのない風景画のように見えるのだが、そして、見る人によっては、まさにそれ以外の感想などまったく持てないようなものであるかもしれないのだが、しかし、絵というのは、目の前にある何かしらを見て、それを良いとか悪いとか言うためにあるのではなく、決してそうではなく、絵というのは、かつてそれを描いた人間がいて、その人間が、画面内をうごめいた事の軌跡であって、それを、別の誰かが、すべてが終わったあとにやって来て、それをいま観ながらあたかも今ここで、そのうごめきをたった今ここにもう一度、追体験するためにあるものなのだ。


という事をまざまざと感じさせられる作品で、自分でも呆れるほどそれらの作品たちの前を長いこと立ち去れず、会場を一巡、二巡しつつひたすら考えの渦の中へ迷い込み、また改めて画面に向き合い、触発され、また考え…ということの繰り返しを過ごすしかなく、それでもおそらく一時間かそこら会場にいて、最後は思わず会場全体に一礼したくなるような気持ちで(しなかったけど)そこを後にした。大変見事なものを見せていただきました、という気持ち。


実際、絵なんて上手いとか下手とか、趣味がいいとか悪いとか、勉強してるとか頭が悪いとか、そういうことなんかは当たり前だけど実にどうでもいいことで、そんなことよりも今ここに広がっている絵の具の色彩が、地面から家の古壁の一面にまで思わず塗り広がってしまっている状況を目の当たりにして、その激しく一色に塗こめられてしまうかのような状況すべてを目の当たりにして、それがたった今、その画面の前で起こったことなのだという、その事実にぞっとする、という事にほかならないと思うのだ。今、そこで感じた、その現在進行形のありよう。その不安と緊張。それがなくて絵なんか見ていて、何にも楽しい事なんかないだろう。


これは何よりも今の自分に言い聞かせるために書いている。これが絵なのだ。このような現象をほんの少しでも起こせないのだとしたら、多分描いたりしてもほぼ無駄である。そのことがまざまざとわかって、絶望的な気持ちになる。でも、こういう絶望感は、ぜんぜん気分は暗くないのだ。むしろ、いまいちな作品をみたときの方が辛い。これが駄目なのだとしたら、僕もおそらく駄目なのではないか?でも何が悪いのか、それがわからない。不安と煮えきらぬ気分だけがたちこめる…。それが、イマイチな作品をみたときの気分だ。反対に、最高の作品をみたときは、はっきりと突き放されるのだが、でもその爽快さは、まさに作品だけが与えてくれるものだ。それこそをリアリティと呼ぶのだ。