「組立」永瀬恭一氏の作品


前回(2008年6月)の作品とくらべて、全体の印象としてはそれほど大きな変調や動きは感じられず、おそらくこの作家の内部で追いかけている問題系は依然として変わっていないのだろうと感じさせられて、そういう事は言葉の説明とかではなく、作品をみてすぐ感じられる事だから、それが余計に印象的だった。今回については、前回の作品を展開させた、というよりは、前回の作品を同じスタンスのまま全体的にブラッシュアップさせた、という感じだろうか。設置場所の冒険や木枠やクリップの使用も経験に則してねばり強く試行を繰り返しているが、それもより良くするための微調整の感触を感じる。


しかしこれもこれまで変わらない印象だが、いわゆる油彩技法的な、絵の具の薄い層の重なりによって画面をつくり空間を構築していくような箇所はほとんどなく、同一層上で二色の(二種類の)絵の具が絵の具のままで、直接、浸食したり反発したりしているように見えるのをあらためて不思議な思いで観た。油彩というのは、二色の(二種類の)絵の具がぶつかり合うような事はあまりなく、もっとあらかじめ制御され、イメージとして定着される事をしっかりと見込まれて使用される事が多い。というか、そのように使うのがもっとも「効果的」とされているから、それを目指す人が多い。それを目指すにしろ、反発するにしろ、その結果が先取りできる、と言うことをよろこびと感じる画家もいれば、失望する画家もいるだろうが、いずれにせよその絵の具が、絵の具ではないものに、避けがたく変貌してしまうのを諦めざるを得ないのが普通だ。如何にも油彩な表情というのは、油彩を観るときの幸福でもあり、退屈さでもある。それが経験を積む事のひとつの悪しき側面である。しかし永瀬氏の作品では、そういう固着感からかなり自由であるように思われる。絵の具が絵の具である、ということに、いつまでも新鮮な驚きを保っているのではないか。そうでなければ、こういう絵の具が絵の具のまま直接ぶつかり合うような画面はつくれないのではないか、などと感じたりもした。


ただし、結果的に画面内のそのイメージが、なぜそのような結果にならなければならなかったのか?という疑問を払拭させる力にはやや欠けるのではないか?と感じさせられたのも事実だ。この色、かたち、質感・物質感…最終的に、なぜこのイメージでなければならないのか?なぜこのあらわれ方でなければならなかったのか?なぜあの位置に設置させなければならないのか?といったところも含めて、…


しかし、会場の永瀬さんは「貧しさをそのまま引き受けたい」というような意味のことを口にされていたような気がする(うろ覚えですが)。その貧しさというのが、一体何か?そこで作者が何を感じており、何に引き続き取り組んでいくのか、ということを、あまりこの瞬間だけの考えにとらわれず、これ以降の永瀬作品の展開も想像しながら、そして機会の許すかぎり観続けながら、時間の流れとともにじっくり考えていくべきだろう。基本的には、そうでなければ、わからないことかもしれない。


(で、以下はすべて余談だが、…実をいうとこの文章には(それほど沢山の内容ではないけど)本当に苦戦した。。一昨日から書いては書き直して、昨日も出来上がらず、先ほど結局また大幅に変わって結果このようになった。偉そうに色々書いているが、書いてる自分が、最終的にこれを「私の感じたこと」として提示してしまって良いのか?なぜこれでなければならないのか?という一点で、どうしても決断できなくて悩むという…(苦笑)そういうのはなかなか、ずばっと格好良くはいかないものです。で、最終結果も、これで納得のゆく内容ですとは言い切れないところもあるのだがひとまずここまで。でも自分が一体何を書こうとしてるのかを、何度も何度もはじめから考え直してウンウン言って悩むというのは、これはやはり決して悪い事ではないのだろう。なので非常に疲れるがやはりしばらくは、制作とともに、書いていく努力も続けようと思った。)