「そこにあるあいだ」


十何年ぶりに再会した兄弟が、ぎこちなさや余所余所しさを感じつつも、二人が兄弟だと言うことと、自分の親がなにがしかの用事を自分たちに言いつけている、あるいは自分たちをなにがしかの理由でそこにとどめている、という理由で、その場に留まり続け、車に同乗して頼りない地図を見ながら目的地へと向かったり、お茶をのんで一緒に夕食をとったりする事になる。兄弟は、二組いて、それぞれまったく別の世界に別の時空に居る別人同士なのだが、その二組のあいだの出来事が交互に描写される。


ぎこちない雰囲気の、たどたどしい言葉のやり取り。ほとんど会話を続ける事に意味ないのでは?もはや黙っている方がなごやかになれるのでは?とも思うようなやり取り。ゲロ吐いて、電話で結婚話を聞いて、その後もなんでもない感じで、冷たすぎるくらい淡々とお話は続く。山梨に電話するのをお互い嫌がってるところとかは笑った。あとみんな姿勢が悪すぎでダル過ぎである。あーとか、えーとか言い過ぎである。もっと世間一般に通用するような、スムーズな、誰に聴かれても恥ずかしくないような、「まとも」なやり取りをしたらどうだろう?もう少し、ぱりっとした皺の無い服を着て、背筋を少しだけ伸ばしてみたらどうだろう?とすら思ってしまうかのような、いやそれは僕ではなくて一緒に観てた妻が執拗にそう言ってたのだが、たしかにもう、どこまでもとりつくしまのないどこまでも回収不可能なだだ漏れの時間が流れてはきえゆく。いや普通、社会人とかであれば、もしこういうシチュエーションになったら、いやこの後わたし三時からちょっと出ないといけないんで、そのあいだすいませんがちょっと適当に、遠慮無くしてて下さいよ、そこらのモノ適当に、好きにラクにやって下さって構わないんで、いや全然遠慮しないで下さいよだってここあなたのウチなんですから、とか何とか、お互いがラクな状況を適当に作り出して、っていうか、そういうのが世間一般における「大人の対応」ってもので、実際、「家族」なんてものも意外とそういう「大人の対応」によって維持されてる事は珍しくもなくて、それが「相手への配慮、あるいは思いやり、やさしさ」であったりすらするのだが、そんな小賢しいローカルルールなど、まったく存在しない、っていうかそんなのをまるで知らないまま、ただただひたすら日差しの強い晴天の下で、ただ目の前にある、「大人」なら簡単に目を背けてしまうような何かをマトモに見つめ続けながら、どうしようもなくどこにも回収しようのないやり取りだけが続く。自分は男の兄弟がいないので、まあ男兄弟同士なんてこんなものだろうなあと思う反面、でもそれも一般化できるものでもないんだよなあとも思う。いずれにせよ、誰でももってる余所余所しさだ。


しかし、その対話にもならないような対話がかろうじて続くかすかな理由はちゃんとあって、それはその二人のあいだに、かすかながら確かな共有された記憶があるからだ。幼い頃の記憶の確かめ合い。子供の頃買ってもらった赤いミニカーや、巨大で奇妙なかたちをしたパラボラアンテナがそびえる、昔、父に連れてきてもらった場所であるとか、景品目当てで行ったパチンコ屋であるとか…それらひとつひとつの些細な記憶の断片だけが、この映画の登場人物たちを、すくなくとも映画の時間だけはその場にひきとめていて、その断片だけが、なにがしかの作用を示していて、それに人間みんながしがみついいているかのようだ。それについて、話をして、記憶をたどるときだけ、彼らはぎこちなさや余所余所しさから解放される。ここではないどこかへ(家族という抽象的な幻想へと)トリップしている。写真とか、記憶とか、そういうものだけが、人と人とをもっともらしい何かへと変えてくれるのだ。


各シーンの各エピソードは、次のシーンの別の二組のエピソードとほとんど混ざり合うかのようにして繋がれ、今きこえている音の所在がどちらなのか?今見えているこの光景はさっき話していた別の思い出の光景のそれとは違うのか?といった混交が頻繁に起き、それは物語が後半にすすむにつれてめまぐるしくなっていくように思う。しかし、そそれが混ざり合おうが分離しようが、事態は何もかわらないのだ。それはそれでしかなく、登場人物たちはかわらず深く孤独であり、何かが何かに作用する事は決してない。しかし、何かが救いのように感じられるのだとしたら、それは何か?ほんの少しずつ、うち解けあっていくかにみえるそれぞれの人物たちの一瞬の屈託ない笑顔だろうか?明日以降のぼんやりしたイメージがほのみえる予感だろうか?いや、たしかにそれもそうだろうが、しかしそれよりも、この映画の唯一のたしかなものとして捉えられている、光の陰りこそが、人を救いめいた気持ちに導くのかもしれない。夏のシーンと冬のシーン、ふたつの季節を交互に繋ぎながら、物語は続くが、しかしどちらも共通する強烈なまでの日差しの強さ。晴れ渡った空から降り注いでくる太陽の光線。暗い家屋に飛び込んでくるまばゆい光。試験管の中の化学物質のように怪しく濃い不透明にもくもくした入道雲の成長。空からのひかりをモロに受けて輝くような緑色の水田の広がりと遠景に広がる山々の青さ。フロントガラスをぎらつかせて視界を失わせる反射光。その晴天の、青空と遮るもののないまっすぐな光の真下に居る、人間と人間の営みであり、それがそのまま、日が暮れていくまで引き続いていくことの、絶望的なまでの現実ということではないか。西日のオレンジ色に、世界が染まっていくこと。それだけが、この世界に生きている事の幸福なのかもしれないのだ。


っていうか、最後のあの笑顔とか、缶コーヒー買って「もうヌルイじゃん」「でも甘いからいいでしょ」「いや甘けりゃいいってもんじゃないでしょ」みたいな対話の、もうどうしようもないくらい底の抜けた何も無さには爆笑してしまったのだが、こういうところ最高ですわ。いや、むしろ、これぞ幸福というものではなかろうか。


ちなみに、二組の兄弟が一組の俳優によって演じられている、というのは、後で知った。知って「えー!うそだろ!!」と思った。でも確かに、そういわれれば、そうとしか思えないようなものとして思い出される。…まとまりなく粗っぽいが第一印象と言うことでこのまま書き置く。あとでもう一度見る。