式年遷宮


この間、銀座1丁目から京橋にかけて歩いていたら、いくつかのビルがすでに、跡形もなく取り壊され、真四角なかたちの地面が剥き出しでぽかんと空き地になっていて、それなりに見慣れた感じのする周囲の風景からものすごい落差で、なんとも不思議な気分にさせられた。こうして、壊して、また何か建てて、そこにまた何か新しいものが入ってきて、何かしら始めるのだろうなあと思った。今までもこれからも、ずーっとそうなのだ。


人間の記憶は、年を経れば経るほど堆積していって、長生きすればするほど、何十年分の記憶の厚みとかも出来るのかもしれないが、でもこうして、周りの風景が、数年から長くても十数年くらいで、短いスパンで一気にリセットされて、跡形も何もなくなって、で、また新たに建て直して、とってつけたように、新しい建物がある日ぽこっと立ち上がってきて、でもそこでまた、何事も無かったかのように、今までと大差ない、似たような営みがひたすら続くのだとすれば、それはもはや、歴史だの文化だの伝統だのといった概念が最初から無効な世界ではないか、とも思ってしまう。などと言うとあまりにも大げさだが。


まあ銀座なんていう地域の事は僕にぜんぜん関係ないのでどうでもいいといえばどうでもいいのだが、ちなみに、僕の実家の駅前でも、もう1年以上前から「大規模再開発」と称して無数の業者や地主を立ち退かせすさまじい面積の地面を掘り起こして醜悪極まりない大工事を延々やってる。たぶんまた、どこかで見たことのあるような下らないうんざりするような「素敵な駅前」が悪夢のように出来上がるのだろう。まあ実家の地域に対しても、いわゆる郷土愛とか愛着みたいなものはまったくないので、銀座同様何がどうなろうとまったくかまわないのだけれど、でもこの先、どこのマクドナルドもどこのコンビニもどこの駅前もぜーんぶ一緒になったら「そりゃ便利だね快適だねー」とはさすがにあまり思えず、なんだこれ何やってんだかなーとは思うだろう。


でも、何も積み上がらないし、何も残らないで、ただひたすら今そこにある問題が追いかけられてるだけで、年月を経ても如何なる階層もヒエラルキーも生じないというのは、平等主義、民主主義というのの理想的なかたちだろう。常に新規参入者に優しく、もっとも経験の少ない人がもっとも尊重される社会。ある意味それの具現化であるとも言える。経験や実績を評価したり尊敬したりしないが、無防備で無垢で何ももたないままこちらにやってくる者にはそれなりの処遇を与えるという。でもその人が経験を重ね、その人ならではの独自な発展を遂げたり固有性を発揮する事は決して喜ばれないという。というか、そういう時系列的な記憶の流れで物事を見ない。見ないし、記憶しないから、そこには歴史だの文化だの伝統とかが、存在しえない。


なんとなく、伊勢神宮の「式年遷宮」を思い浮かべた。全ての社を20年に一度建て替えてしまう。そこでは、歴史だの文化だの伝統だのといったもの、というか、それを構築してしまうもの、そのような人間のありかた自体が「穢れ」とされ、きよめられるべきものとされているのかもしれない。…まあ思いつきの戯言ですが。