ジュンク堂新宿トークセッション


佐々木敦×磯粼憲一郎トークセッションを聞きに新宿まで。小説を書く、というのは何かについて一言、書いて、そしてその次に、たった今書いた事に触発されたりしながら、またもうひとつ、書いて…ということに繰り返しで書かれるとして、そのまま何日もかけて、原稿用紙何十枚分かになったとき、その内容全体というものが、どうしても一覧的に、一挙には見ることができないという事をあらためて思った。小説を書くというのが、書いた事に触発されて次の運動が連鎖する、ということの繰り返しだとすれば、小説を読む、ということもまた同じように、今読んだ事の衝撃で次への興味が連鎖的にひきおこされる事のくりかえしなのだ。


小説の体験というのは、人間の頭の中の記憶の部分での出来事で、人間の記憶というのはコンピュータのメモリと違って「上書き」は出来ても「消去」ができないようになっているし「上書き」も元の情報が新たな情報によって完全に塗り込められて跡形もなくなってしまう訳ではなく、むしろ元の情報と新たな情報が、生乾きの絵の具同士みたいに平気で混ざり合ってしまうような事が起こる。人間の記憶というのは、そのくらい曖昧で予測不可能な挙動をするものである。しかし「小説」というものは、そういう人間の記憶の特性を最大限に効果的に利用して面白い経験を発生させようとする形式なのだろうと思った。そのためにはすべての出来事やすべての登場人物や脇役や動物や植物や昆虫たちが、すべてそれ単体で自立的に浮遊するかのように小説の上に配置される。記憶上で、どのような連鎖反応の可能性も受け入れられるようにしてある。小説の作者が、そういう配慮に異常に気を遣っていて、そこで起こるであろうものすごく面白いことに対して、すごく自信をもって「ここで起こることは絶対面白い」と確信している感じがあって、だから読んでいてそこを信じて、小説の中の様々なことたちと無防備に戯れてみようという気になる。それが小説の、信頼に足る価値をもった面白みなのだと思う。


(ちなみに絵画だと、ある限られた領域内で行われた行為がそのまま積み重なって、そのまま物理的に目の前に提示されるので、むしろ制作の過程が「記憶の積み重なり」の物象化されたものみたいにたちあらわれてくるような形式を持っていて、観る者は一旦それを「私の記憶の積み重なり」に想像的に変換した後、あらためて目の前の作品を見ることになる。そして、あらためて(少し遅れて)感動したり衝撃を受けたりする。)


磯崎憲一郎さんの話はほんとうに気取ったところもなく堅苦しいところもなく、まったくリラックスした雰囲気の中で、ひたすら平易な言葉だけで、何の屈託もなく自己顕示欲とも自己卑下ともまるで無縁な、ただひたすら楽しい軽やかで面白くて軽妙なユーモアに満ちあふれた話が、どこまでも続いていくという感じで、そのあまりの平易さとか全方位肯定感覚とでもいうべき楽天性が、かえってびっくりしてしまうというか、ちょっと信じられない、という気持ちにさえさせられる。そう感じてる分だけ僕が濁った人間なのかもしれませんが…でもたとえば「やっぱロックだよ!」というときの例として出てくるのが、ツェッペリンだったりボブディランだったりストーンズだったりするとき、ふつうに考えて、それじゃああまりにも典型的すぎて、例として「ベタ」すぎて、「ロックだ!」というときの例にならないのでは??と思わず考えてしまいそうになるのだが(要するにちょっとオタク的になってしまうと、「ロックだ!」という事を人に伝えようと考えた場合、今仮にストーンズとか口にしてしまったら逆立ちしたって相手には伝わらないだろうという妙な懸念、というか疑心の観念があって、それゆえやたらと細分化されたジャンルとかに拘泥する事にもなるのだとおもうが)でも磯崎憲一郎さんはそんな事まったく心配していないのだ。磯崎さんは「ボーリングの球がゴローンと転がり出すときのような感じで、小説が書き出されて、後はグルーヴで行く」と仰る。その言葉は圧倒的に素晴らしいと思った。でもその後平気で、ツェッペリンの曲でそのときのグルーヴを例え始める。これはもう、ツェッペリンの楽曲が、どう考えても素晴らしいというのは、もはや人類的に疑いようが無くて、それは私とか貴方の諸事情を超えて世界が素晴らしく輝いているのと同じように素晴らしいグルーヴのだから、それは今更もう、動かしようのない事実なのだ、という確信があって、そこではじめて可能な断定なのだ。「…もう今はツェッペリンとか言ってると馬鹿にされちゃいそうだ、ツェッペリンじゃ通用しないのが「現代」って事だ」とか何とか、したり顔で言ってる方が、よっぽど脆弱で恥ずかしいことなのだ。ということを痛感させられました。


元々、ミュージシャンになりたかったけど、奥田民生という音楽家がいてその人の音楽作品があることで、今は「それでもういい」と思える。それが自分じゃなくて奥田民生だったということで、それで全然良かったのだ、それが自分じゃなくても全然構わないと思える、という話も、なんというか。自分でも予想以上に感動してしまった。過去に素晴らしい幸福の記憶があるということだけで、それだけでもう充分なんだ、今の自分が、電車の中とかで見かけるベビーカーを押してる若い夫婦の時間と、同じ時間をもう一度体験することは、絶対できないのだけど、でもそれをかなしい事とは思わない、そういう過去の遙かさ、不可逆的な過去の不思議さ、その遠さみたいな、遙かな感じ、甘美な感じだけで、充分なんだという話など、たぶんこれからも何度でも思い出すだろう。(明日になれば、今日聴いた話の記憶が、自分の中でまた、遙かなものとなっているだろう。)自分の一番たいせつなもの、自分のもっとも愛しているものが、自分の外側にあるということの幸福。それゆえに、もはや自分の事など完全にどうでも良いと思えてしまう感覚。その幸福。それが幸福なのだということは僕もひししひと感じる。そういうことに関しても、あらためて考えた。