国分寺switch pointで利部志穂展


国分寺switch pointで利部志穂展。手前のモノが視界を遮蔽している感じで、会場に入る前に一見しただけでは、作品の全容がどうなっているのかわからず、会場内に入るにしても、足元にあるものを跨いだり潜ったりしないと入り口より先の奥までは入れない。意を決してわりと強引に入り込んで、奥まで見に行く感じである。一旦入っても、落ち着いて佇めるような場所はなく、鏡と光と映写されている像の明るさに照らされたまま視線を泳がせているままである。そしたら会場に古谷利裕さんがいらして、とても久しぶりにお会いした。目の前に展示されている作品の事とか、少しお話した。


利部志穂作品に限らず、作品というのは一旦観て、そのまま観ている今の状態を自分の中で忘れてしまって、しばらくしてもう一度、自分が観ているものが「それ」で、今自分は「それ」を観る事ができるというのを思い出す)、というときが、最も作品に近づいているときかもしれないと思った。そのときは「作品」を観ているのではなく、あくまでも「それ」を観て、次にまた別の「それ」を観て…ということの繰り返しで、作品を観るのにもっとも良い状態というのはそういう観ることの回転数がもっとも高まっているときの事である。というか、とくに利部志穂作品の場合、それがしっかりと温まって回転数が充分に上がってくるまで、そこまでじっくりと待たないと、なかなか見えてこない。


前回観た「引込線」とかそれ以前の展示とは、今回の印象はかなり違う感じを受けた。まず選ばれている物質の来歴というか属性というか、その感触が違うと思った。いやそれは僕の単なる思い込みかもしれないが、しかしモノ同士の重力と拮抗し合うかのような支え合い、力とか方向性がモノを伝わって他へと伝道し、橋渡しされていくような作用が、執拗かつ繊細に仕掛けられているような今までの感じが、今回の作品にはそれほど感じられない。もっとぶっきらぼうで開けっぴろげな、かなり手放しにした感じというか、仕掛ける単位がもっと大きくなったかのような印象。映像(とその光)が要素に大きく含まれている事の影響もかなりあるかもしれないと思った。


国分寺レコード屋珍屋」に寄る。McCoy Tynerを2枚買う。1枚目(「Together」1979)は…まあまあだなあという感じ。McCoy Tynerはいつもそういう感じを受けるのである意味想定どおりなので満足。…と思ったら2枚目(「The Greeting」1978)はなかなか!McCoy Tynerはやっぱりライブ盤が良いという事です。


その後吉祥寺にも立ち寄り、A-thingsの西原功織展も観る。小品が大量に展示されているのに、全体的にはとても抑制されたストイックさが感じられる。その上で、絵が自由を与えられて奔放に生成されている感じ。うつくしさがたくさんある。いや、うつくしさという言葉ではちょっと違う感じで、色や形や質感ひとつひとつの持つ、なんというか、上手い言い方が見つけられないが、絵画から受ける、あの感じがたくさんある、としか云えない…。


今日は暖かい日だった。コートをずっと腕に抱えたまま歩いていた。それでもひどく汗をかいた。


今日は最初からアクシデントがあって、昼食をとった後、湯島駅まで歩き、地下鉄の階段を降りてから、湯島天神方面の出口から改札を通ってホームへ降りる階段の最後の1段を踏み外して、転びはしなかったが、左足をモロに捻ってしまった。軽く痛みが残ったけど、まあ大丈夫だろうと思って、その後も歩き回ってたら、夕方には相当な痛みになってしまった。完全に捻挫している感じで、やれやれ参った…という感じ。