自分の思うことや考えを書いておきたいと思うので、そういう事を書いているが、でもそればかりでも、倦怠してどんどん煮詰まってくる。で、いいかげんにうんざりしてきて、もうとにかく、自分の思うこととか、自分の考えというもの自体が、耐え難く暑苦しくて鬱陶しくて、そうじゃない事ならなんでもいいから、いわゆるそういうこととは別の、自分とはまったく関係のない、ただの事を書きたいと思うことはよくあるので、あえて見たものを見たままに描写してみたり、どうでもいいと思えるような事を書いてみたりもするのである。そういうのは、読む人がどう思うかはともかく、書いてる本人にとっては、内容以前に、そういうのを書いてるというだけで、かなり爽快な気分になったりしているものだ。


しかしそうはいっても、どんな内容であれ、やはりある程度ずっと書き続けていると、自分の思いや考えとは別の、そういった自分から切り離された事を書いているつもりだとしても、結局は自分の思いや考えを書いているのと変わらなくて、それに気づいて、あらためて失望する。


最近、よく思うのが、自分の中に客が来ないかと思う。たぶん「登場人物」というのは、自分のうちに来た客のことだろうと思っている。客が来ると、面白いのだ。


僕はたとえば、この日記の中にたとえば「妻」を登場させることがある。「妻」を登場させるのは常に、僕にとってはある程度の、書くことの衝撃をもたらしてくれる行為である。その衝撃をよびこみたくて「妻」を登場させているのだといっても良いかもしれない。でもあまりいい気になってそれをやるとかえって失敗する。というか、これはやはり難しくて、実は大抵が失敗で、面白いと思える事のほうが少ないかもしれない。


要するに日記の中に「妻」が出てくるというのは、僕の考えや思いの中に、いきなり客がやってくる事なのである。重要なのは、そのおどろきなのだ。いうまでもないが、これは現実の世界における僕と妻の関係とかは、基本的に無関係である。というか、僕の現実の生活で常に妻が近い場所にいるから、必然的によく登場してくる、というのはあるが、でもだからといって、妻が登場してきたとしても、そのとき出てくる「妻」は、現実的な人間ではなくて、書かれたものの中に唐突に挿入される異物、としての「客」なのだ。


保坂和志「生きる歓び」に出てくる「登場人物」の在り方には、すごく「フェアネス」を感じるというか…人間が設定した例えば民主主義みたいな人工的システムとしての「フェアネス」ではなくて、もっと巨大で不思議な、自然というか世界というか神というか、そういった何かがもともとそのようにして最初から与えてくれていた「フェアネス」というものに気づかされるというのか、そういう風に思った。「登場人物」の登場に一々ものすごい衝撃がある。これらの人物で、一人として何かのコマにさせられるということがない。いきなりやってくる「客」のようにして、そして彼らに何をしてあげれば良いのかわからない緊張、こういう振る舞いをされたらどうしようという不安、でもやはり今ここに居てくれているという事の大きな喜び、そういうものが渾然となった強烈な場。そして、おそらくは「客」の方も、私と同じように、ある程度緊張して、こちらを意識しているのだ。こちらの振る舞いに信頼と不安をかかえているのだ。私は私の不安を感じながら、相手も感じているだろう不安を想像して、さらに一層不安になるのだ。でも、やはり相手がそこに居てくれるのは嬉しいので、その状態を耐えるのである。