理由


景色を見たりしてそれを美しいと思う事と、絵を描きたい/観たいと思う事は密接に関係しているが、直接つながっているわけではない。


毎日何かを見てうつくしさを感じて、毎日絵を描くのが、多くの人間にとってどれほど困難であることか。


なぜ絵を描けなくなるのか?


それは、何かを見てうつくしさを感じられなくなるからでも、絵を描きたくなくなるからでもなく、両者がいったいどのように関係付けられ、結び付けられているのかが、わからなくなってしまうからである。日々を重ねるにしたがい、そのわからなさが、無視できないほど大きく前面化してしまうからである。


極端な話、行為(制作)が外部的な何者かに評価されたり正しさを保証されたりしなくても一向に構わない、と言い切ることは(自分に閉じこもる事によって)可能かもしれないが、しかし少なくともこの私が私自身で最初にうつくしいと感じた何かに対して、私の行為(制作)がそっぽを向いてしまうような状態なのであれば、両者を司る者としてそれはさすがに耐え難いだろう。


良い作品とは何か?というと、まず何よりも私がうつくしいと感じた何かと、私の行為(制作)が何らかの関係性をかたちづくっていること。絵自体が良いのではなく、絵が原初の目的とつながっているという事だ。


作品の良さとは、その絵の生まれた理由そのものである。と言えるかもしれない。「絵が成立している」とは、絵がそのまま理由であるような状態の事を云う。


「お前にとって絵とは何だい?」「理由よ。えがく理由。」みたいな。


そのとき、良い作品にあらわれている質というのは、モティーフとなった花なり景色なりの質(それを見たときのリアルな記憶)というよりは、それらと作品を結び付け得る説得力という事になる。


ということはやはり絵というのは、少なくとも人が描いたもの(人が描いたという物語が信じられる基盤上にあるもの)でなければならない。


私の制作した作品が良くない、というとき、なぜ良くないのか?なぜ私の作品は、私の最初にあったイメージから離れて、糸の切れた凧みたいにくるくると旋回しながら、スタンドアロン状態で中空を漂っているのか。


絵が「理由」として存在しているのなら、絵の中にはもう何も描かれていない。絵は絵であって、絵の「中」は無い。何かが描かれていて、それを観察の対象とする以上、絵は絵である事の理由を絵の中(外部)に依存している。絵の前で、人は絵ではなく「それ」を見始めてしまう。何かが観察されると同時に、絵は描かれた理由として存在する事をやめてしまう。


というか、たぶん、観るという行為がもともと、絵画の在りようとそぐわないのだ。そこはもう原理的な、根本的な無理をかかえた倒錯的なシステムなのだ。絵画はそこに在るが、観るとは結局のところ、移動する事だから。人間は基本的に「そこにある」と言う事を理解できないから。だから何かを描く/見る限りにおいて、失い続けるよりほかない。理由など発見のしようがない。おそらくバーネット・ニューマンは、その場所において踏みとどまるひとつの方法を発見した。ここなら何も失わずにすむ。


ここまで書いて、あとはもうよくわからない。しかしまあ、今後も、おもむろに、ただなんとなく、ふいに、唐突に、何の前触れもなく、誰かの力添えとか誰かのお墨付きとかでもなんでもなく、伝統でも歴史でもなく、たゆまぬ努力の成果でも地道な研究の末でもなく、文脈も共有しない、全然別の、別の県の、人口何十万人かの、別の地方に住む、全然別の、よくわからない誰とも知れぬ他所の人が、なんとなく描き始められるような感じとして、色々なところで、絵が立ち現れる。急に、夜が明けて朝になったかのような新鮮な空気をまとって、描かれた絵画が目の前にある。なんでもなく普通に、描く理由をもって描かれた絵画。それが普通に出てきたりもするかもしれない。


ある村の若い夫婦の間に可愛い女の子が生まれた。その娘はすくすくと成長し、やがて目を見張るような、絶世の美少女となった。すべての人々が、その娘に見とれて、その娘の美貌をたたえた。やがて娘は成長し、息をのむような前代未聞のとてつもない美女となった。しかも外見だけでなく、内面もたいそう美しく豊かで、気立てもよく、村一番の働き者で、村人皆から愛され、はじめは娘をやっかんで嫌っていた一部の集団も、娘の底なしの優しさと誇り高い気高さにほだされ、回心してそれまでの自分の行いに対して悔恨の涙を流し、その娘の美しさを認め、謝罪し、赦し合い、傷をなめあい、やがてすべてを信頼し、そのあと一生の友となった。そして娘は幸福に暮らし、村人も全員が幸福に暮らした。やがて年月が経ち、様々な事があったが、その娘はなおも変わらず美しく、今でもまだ、美しいままである。


みたいな話として、絵画も生まれる事だろう。