Rain


雨脚は強く、ひっきりなしに被弾する雨が傘の内側で中低域の音を大きく響かせ続ける。いつもと同じ歩調で歩き始め、足元の裾や肩や腕の周辺が酷く濡れるのは仕方がないにしても、この路面の濡れ方はかなりなもので、現段階で歩行自体にずいぶん危険が伴うと考えるべきなのだから、一歩一歩を慎重に、接地した足の、靴の裏が地面をしっかりと捉えたかどうかを瞬時に確認しつつ歩行しなければまずいと思っている。地面と靴の裏が接地する際の摩擦力は、晴天時と較べて大幅に減少しているはずで、これほど水に浸った路面での実績は極端に少なくデータも乏しく、時と場合によっては氷の上に足を乗せるも同然であるはずだ。その一瞬、すべって転ぶときの一瞬を思い浮かべる。踏み締めると思って出した足の、靴の裏が何の抵抗もなく、嘲り笑われるかのように滑って地面から離れ、身体の落下を避けようがなくなった瞬間を想像するだけで、腹の奥底にぎゅっと硬い何かが生じる。しかしとにかく、自分の身体を歩行によって推し進めていくことの運航責任者は自分自身なのだから、こんなときこそ適切な判断と決定力が試されるし、そのためにこそ自分はこうして細心の注意を自分自身に対してはらっているのだ。大丈夫大丈夫。自分に言い聞かせる。軽い緊張はむしろ僕の友だ。昔からそうだった。ストレスやプレッシャーを逆手にとってスリルを楽しみつつリラックスして行こう。それにしても左足を前に出す瞬間は、地面を踏みしめたまま固定された右足が身体のすべてを支えており、その重さを靴の裏が濡れた地面との接地力で受け止め、グリップの限界まで踏ん張っていることが、レインコンディションの場合如実に感じられる。少し気を許すと、ふいに身体が外側に振られそうになる感覚をおぼえる。左足を前に出す際の勢いはおのずと身体を前方内側向きに投げ出すような運動となるのだが、そのときの方向性に対してカウンターを当てるための外側に向けた反発的な運動作用が必ず発生するもので、その緒力の拮抗が妥協点を見出した地点に、最終的に左足がランディングすることになり、これは右足の同駆動時においても同様であり、いわば歩行とはそういった運動のシークエンスの飽くことなきくり返しにほかならない訳だが、雨天時においてはこの緒力のバランスシートが根本的に変わってくる。とくに外側への力がそのまま身体に保たれていた直立のバランスを思いのほか低下させ、運悪く足元のグリップ力低下とタイミングが合えば、身体はあっけないほど制御力を失い重力のなすがまま地面への落下もありうる事態を引き起こす。これが怖い。やはり雨天は恐ろしい。雨はなおも、激しく視界に縦の線をひっきりなしに書き続け、あたり一面煙ったようなグレーで、路面は煮立ったような雨の波紋のおびただしい重なりを浮かべてはなくし、ネオンや街灯や信号機の色だけが降り注ぐ雨の弾痕でずたずたにされたような酷いかたちに泡だって路面に反射して落ちている。とにかく転ばないことだ。とにかく無事に歩行を続けることだ。いや、大抵の場合、人間はそうやすやすと転ぶものではない。それはわかっている。理屈では充分によく理解しているつもりだ。なんだかんだ言っても、目的地までとくに大過なく辿り着く。ほとんどの事例が、そうなのだ。だから、取り越し苦労をするな。無駄なのだ。コストの無駄。エネルギーの無駄だ。効率的側面から考えてまったく無意味だ。自分にとっての残留課題であり、是正すべき事項だ。ネガティブシンキングもほどほどに。さあそんなことを考えている間に、もうずいぶん進んだぞ。とにかくそのまま、いつもどおりに行け。余計な事は考えない。そのまま行け。いや、行くな。ふつうに無意識にしてろ。今は、ふつうに歩くという、それだけを考えていれば良くて、それだけを考えていれば良いというのはやはりかすかに救いでもある。そう思っていればいいさ。