愛の完成


岩波文庫ムージルを読んでいるが、100ページ弱の短い物語なのに読み進むのが遅くて一週間たっても読み終わらない。もう、何が書いてあるのかまったくわからない。わかっていると思っていたことが読むことでわからなくなってしまう。出来事ではなく書いてある事をなるべく丹念に、なるべく取りこぼさないように拾いたくて、何度同じページを読み直すことか。酷いときは1ページを一時間以上読んでいたりする。朝など眠くなってきて、少しうとうとして、しばらくして気を取り戻して、もう一度数頁戻ってからあらためて読み返すと、記憶にある断片の連なりであるにも関わらずほとんどはじめて読んだときみたいな発見に至ったりもする。ここ数日、睡眠不足で半覚醒状態での、一文章や数文字にかかるかかからないかというくらいの意識でたゆたうような読書が、かなり良いものだと感じるようになってきた。マジで「これこそが幸福かも…」と感じてしまう瞬間もないではない。もちろん没入して背中を丸めて前屈みになって読み耽るような状態も幸福ではあるが。でもまあ少なくとも読書というのは、優雅なものではないものですね。ひとりでガツガツとメシをかきこんでるようなものだと思う。さもしくてみっともないものだ。ある意味で、人前でやるべき事じゃないのかもしれない。明治時代だったら「本なんか読むんじゃねー!」とか言って親父に殴られただろう。没入するとか我を忘れるとか、みっともないものだ。どうかと思うなそういうのは。血の気の引いた蒼白な顔でさ。でもまあ、いまさらもう、読むしかないけど。残りの人生読まないわけにはいかないだろう。何の希望もなかったとしても、車に乗ってあてもなく移動しないわけにはいかないから…と話がずれたが、それにしても書かれるべき何かがあらかじめあって、それを組み立てるようにして上手く言葉に置き換えることができているだけなら、読書というものはこれほど凶悪で激しい体験にはならない。ホワイトノイズの一歩手前みたいなすさまじさ。人間が移動しながら物を思うということだけの、これほどの激しさ。人の頭の中に入って必死に体験をリロードする無謀さ。もはや夫婦とか愛とかそういう事すら溶解しかかっていて、とてつもなく剥き出しなままの何かを巡る試みで、当然そこに言葉は異物としてしか近づけず、しかし言葉でしか書かれていないがために、繰り出されたものは事あるごとに干渉し摩擦熱を帯び発光して酷い騒音を上げて火花を散らせて猛り狂い密集し偏り押し潰れてそのまま放置される無残さ。でも何かがあるらしい事だけはわかる。それにしても過酷だ。「彼女は思った。人はひとすじの線を、とにかくまとまりがあるというだけの線を刻みこんで、それによって、黙々と突き立つ物たちの存在の間で自分自身にすがりついていようとする。」