歯医者


歯科医院に行かれる際は二階をお上がり下さいと書かれたすぐ脇の階段を上がると廊下の奥まった先の右手が入り口で、受付と書かれた場所で初診の手続きをして、歯や健康状態に関するけっこう細かい質問表みたいなのに記入して渡して、それで待合室のソファーに坐って呼ばれるまで待つ。ソファーは僕が坐ったのを入れて合計五つくらいあり、他には誰もいなく左端のソファー上にはコートがぐしゃっと置かれている。しばらく待っていると、階段を人が上がってくる音がして、受付にこんにちわと呼びかけながら男が入ってきて診察券を受付に出して、その後数分もせずに名前を呼ばれてはいと返事してすぐに診察室に入っていく。そういう人がその後も幾人か続けて来て、さっきからずっと坐って待っているのは相変わらず僕だけである。結構、待たされそうな雰囲気を感じる。でもそれでもまあいいのだと思って、本を読んでゆっくりと活字を追う。このまま三十分待っても一時間待ってもかまわないと思っている。べつに家にいても、結局こうしてこの本を読んでいるだろうから、別にいまここで待たされたとしても、すぐに終わって家に帰ったとしても、きっとやってる事は一緒なので、それで、しばらくしたらなんとなく全身が温まってきて、すこしうとうととして、おそらくたぶん、しばらく寝たかもしれない。何か、誰かを呼ぶ声がしてはっとして起きたと思う。そして、またさっきと同じ箇所を読む。その箇所。これはつまり、そう書いてある事が、それを言ってるやつの事を感じることができるか、ということなので、あらためてそれが大事なんだよなと思う。書かれている形式として、何人称なのか?という事など、さほど重要ではないんじゃないかと最近は思う。普通に三人称で書かれているのに、その書き手の位置を探らなければ何もわからないという事のほうが重要なのじゃないかと思っている。というか、彼は何々のようなことを思った。それは何々にとって丸々のようなことなのだった。彼はそれを何々の全体にかかわる何かとしてありありと心のなかに見出したのだった、みたいな文章があったとして、そこに何が書かれているかということではない何か、つまりそのような現れ方を強制させてしまう強力な圧力のようなもの、強風がひっきりなしに吹き続けている中での空気のそれ独自の密度というのか、これはそういう事なのではないか、そうであったと彼が書くとき、それはおそらく彼と同時に彼じゃないとてつもなく広大な同時多発的な現在進行の凄まじい時間が瞬時にあって、それらの中において彼の絶望的なまでの小ささ、信用に足りない儚さ、その無残さ、とでも言うより他無いもの。その凄絶さなのではないか、などと思った。これはたぶん、それこそを聞き取るのだ。それこそを聞き取れと言っている気がしてならない。坂中さん、お待たせしました、と衛生士の女性が僕を呼んだので、あ、はいはいと言って僕は診察室へ入った。歯科衛生士の先生は女性である。年齢はいくつくらいか。僕と同じくらいか、いや僕よりは若いだろう。大きなマスクをしていて、大きな目の人で、目が少し充血してた。歯科衛生学科の短大を2002年に卒業して、この勤務先には2007年から勤めている。勝手な想像でそう書いてみた。歯科衛生士の仕事は多岐にわたる。忙しい毎日だ。友達の男から言われたけど、歯医者って土木作業員みたいだ、だそうだ。その男は歯医者が嫌いだと言っていた。なんで土木?と聞いたら、だってさあ歯石除去とかって毎日毎日、あのすさまじい音のする機械で、硬い歯とか歯の裏とかの、要するに石灰質の塊でしょ?そういうのをひたすら削って削って削りまくるのが仕事でしょ。削孔・削岩に明け暮れる毎日でしょ。その間ひたすら、無抵抗に寝そべって大口を開けたままの患者の頬や目元に苦痛の皺が寄っていたり胸のやや下に置かれた手の五本の指に力任せに何かを握り締めているみたいな尋常ではない力みが加わっているのを横目で見ていたりする。大の男が子供みたいに痛がってる。いい歳して本当にみっともなく痛がるおじさんはけっこういっぱいいるのだけど、痛がっている人を見続けてきて、見慣れてるから、痛がっていても、ああ痛いのね、痛いのねと思うだけになってしまう。というかその痛がり方がかわいそうとか気の毒だという気持ちを全然誘発せず、あと何十秒我慢してくれるか、この一本だけ最後までやらせてくれないか、もうちょい頑張れないかしらとか、そういう事を想像するときのあてにならずろくに見てもいないような計りにしか感じられない。とにかくできるだけ我慢してくれるのは助かるのだ。やせ我慢してくれる人が好き。だからなるべく我慢して下さい。終わったら脇の紙コップでお口を濯いで下さって結構です。そのボタン押してお水出ますからね。けっこういっぱい出血されてるんでよく濯いで下さい。口を濯いで吐き出した。結構赤いのが吐き出されて、排水口に吸い込まれる。ボクサーみたいに、丸まったやわらかい塊のような血痕が、いくつかくるくるとしながら排水口に吸い込まれる。ふうとため息をついてティッシュペーパーで口元を拭いて、また元の姿勢に戻って寝そべって真上を向き冬の太陽のように眩しいスポットライトの光源のちょっと脇を見る。ふいにその太陽が翳った。じゃあ続けますねと言って逆光になった歯科衛生士の顔が僕を見下ろしている。