制度や名前の事はよくわからないが、重力や劣化を信じる事はできる。しかしそれを言うのは勇気がいる。お前は結局、美術を美術たらしめている何かに対して不感症なのではないかという疑いを禁じえない。


しかし美術作品は、それ以外の物と同様、どのような種別であれ、重力の支配下に置かれていることと、朽ち続けるということにおいて共通している。重力の支配下に置かれているということは自分と空間を共有しているということだし、ものが朽ちているときそれは、朽ちるだけの時間が流れたということだ。たいていの場合、作品、あるいは物は、僕が知っている過去の時間の長さをはるかに凌駕するとてつもなく長い時間の堆積を通り抜けて、今ここにあるのだが、その時間の体積にまとわりついている諸々の大量の物語や諸事情や関連や参照項を一切差っ引いて何もなかったことにしてみても別にかまわない。というか、それをそれとしてみるなら、むしろそれはそのものでしかなくて、それ以外の何かに見えるほうがおかしい。あたりまえの事だ。もちろんそれも、それ自体でみえているわけではなくて、単に何の意味も背負ってない500年前や1000年前という幻想の物語とか、その手の何かに過ぎないのだけど、それでもそれだけでも多少は、新鮮な開けっ広げな空間の出来に気分が晴れる。



美術作品には作者がいる。これは重力や劣化と同様、例外ない。しかし作品の作者はその作品を手がけたというだけで、手がけた後は実質的に有用ではない。当然のことながら作者は作品が100年後どのように変貌しているのかを完全には予想できない。もちろんその時点で可能な最大限の予測をたて、最大の努力と配慮をするかもしれないが、さすがに100年後や200年後の状態を予想してあらかじめ予防処置を施すのは難しい。それは大げさにいえば人間に許されている想像力の限界の外の領域になってくるだろう。それはたぶん作者にとって救いであるはずで、何もかもどんどん壊れていって、その過程をふいに見ているだけという事だけでまだこの世には別の救いがあるはずだという希望を持てるという、そういう救いであるはずなのだ。


朽ちた画面、朽ちた物質は、人間に許されている想像力の限界の外を感じさせる。絵画が朽ちたそのありようをみるとき、人間の営みとそれ以上の力との密な拮抗を感じる。


展示物をみる。みるとき、それをみるとき、それ自体をみている。それ以外をみていない。それ以外をみていないという事実は自分をよろこばせる。しかしそれは錯覚で、美術展とか、博物館とか、展示会とか、なんでもいいけど、なにかみるためにできた場所に行って、そこでものをみているとき、ものをみているだけ、ということはありえない。ものをただみていることだけできたら、それはものすごいことだ。でもまあ普通は無理だろう。たいていは、ものをみることなく、ものをみる事で派生する諸事に対処する作業におわれてしまう。


自動車博物館に行けば、自動車が展示されていることが、救いだった。鉄道博物館に行けば、機関車が展示されている。それは揺ぎ無いものに感じた。僕はむしろ、そこにこそ制度的信頼度を求めた。もしホンダのレーシングカーが展示されている会場にいったら、たぶん60年代のF1マシンHONDA RA300とかが見られるかもしれない。RA300が展示されてなかったとしても、それに類する何かは確実に展示されているだろう。あるいは展示されていないのだとしたら展示されていないなんらかの理由めいたものが匂っているはずだろう。僕が求めたのはそれだった。そして、現に目の前にRA300が展示されていたとして、その車体にまつわる物語を読み込むことも自由だし、RA300をそのものとしてみることも自由だ。RA300をみて、もし美しいとかかっこいいとか思うのだとしたら、それはおそらく無意識にRA300にまつわる物語、あるいはそれと無関係でありながらも何らかの参照先を読み込んでそう思っているのだろうが、それでもとにかくそれがそれとして展示されているだけで、それ以上は必要がなく、それだけとしてあって、それをみている。そう信じることができる。だから良かったのだ。


学生の頃、毎日パチンコ屋に通っていた時期、労働の対価を得られること、あるいは得られないこと、努力の甲斐はないこと、あるいはまったく唐突なふいの僥倖に見舞われることの、そのつどの不確定でありながら毎回結果は訪れるという確固たる事実、その毎度訪れる結果の、内容にかかわらず確実に届けられるという確固たる信頼性を経験して、じょじょに僕は、これなら社会で働けると思い始めた。あるいはすでに自分が働いてしまっている事に気づいた。もはや合理性とか効率性を検討する段階にいる自分を見出した。要するにこういうことなのだなと思った。いま見出した閾値を超えない限りは、ずっとやっていけると思えた。僕が今、ここにこの文章を書いたのは、それから11年後のことだった。今もまだ閾値の中で日々は続いている。とはいえやはり当初の想定のままで今まで渡ってこれた訳ではぜんぜんない。むしろ改変に次ぐ改変、方針の刷新、心構えの再編成を何度となく繰り返してきた。それでいて当初の閾値を超えないというのは、我ながら疑わしいことばではあるが、しかしそれはそれで実感としてあるのだから仕方がない。それは僕が自分を移動させて社会に出る、という認識ではなく、今このままで扱う対象を何にしようがが変わらず行けるという認識である。そこにいけば、それがある。それを見れば、それを見ることができる。という信頼性を信じたということなのだ。


何度もいうが、そこに起こっている出来事だけをみている。あるいは、何も出来事らしき出来事の起こらないありさまをみている。そのように、あるしかない。


そういえば、水沢さんは、もう何年も前に結婚して名前が変わったはず。いまなんていう名前なのかしらない。今はなんて呼べば良いのか?別に今までどおりでも呼べば通じるんだから、今までどおりでいいか。でもいまは水沢さんの中では、旧性で呼ばれるのは、すでに違和感があるだろう。結婚して、もう、けっこう経つから。それは水沢さんの中では、すでに水沢さんと呼ばれるのは、例外処理で水沢さんとこの私を紐付けして後処理して反応してくれてるだけの事だ。そんな特別処理していただくのはしのびない。


水沢さんは昔も今も僕の中で、水沢さんとして結実するのだけど、当然ながら彼女もすでに40歳を目前にしている訳だ。彼女も重力の下で生きているし、劣化もする。かつ、彼女は展示物ではないから、いつでもどこか特定の場所に行けば彼女に会える。などといった性質のものでもない。彼女とはこの世界で、自分の選んだメソッドに従うだけでは渡っていけない複雑な世の中のシステムの中で、何度となくリトライしながら出会いなおさなければならない。


この文章は今日、酒井抱一紅白梅図屏風をみたときのことを思い出しているうちに書かれたものだ。ぼくは今ぜんぜん、ここに書かれたことに満足しておらず、いつものような苛立ちとうんざりとした厭世感につつまれている。かつ、なぜ作品名には作者名も付記されるのかと思って、そのことにもうんざりしている。しかしあそこで見たものが、巡り巡って、結局誰かの元かどこかへ届くのだとしたら、そこにはやはりfrom句がなければ駄目なのかもしれず、だとすれば暫定的に酒井抱一という名前が必要なのだという話もまあわからなくはない。だからそこはまあ仕方がないとは思う。しかし、重力と劣化に対して、その結果の回収先に対して、名前は付けられない。物が錆びたり腐ったりするとき、その「作者」を指定できない。このことはどう言い替えしても揺るがない。


僕は自分が興奮したあの感じについて書きたかっただけなのだ。でもまったく書けないし、実際一言も、書こうともしていなくて、ぜんぜん別のことを書いてしまった。書きたかったこと。やはりそれを書くには時、まだまだ時間がかかるようだ。それを書くにはまだいまの自分には難しい。それはあのとき起こったことだからだ。あのとき起こったという、まずはそのことから作らないと書けない。でもベタに作る事はできない。結局何度も何度も、同じような毎日と同じような振る舞いでやってみるしかない。やばい、超眠くなってきた。眠くて眠くてもう何書いてるのかわからなくなってきた。