わにくん


「わにくん」という絵本がある。

 僕がこの本を読んだのは、いくつのときだっただろうか。

 今日、児童書や絵本をたくさん置いてある店で、たぶん三十年以上ぶりにその本を手に取って見た。大変、なつかしい。

 ぱらぱらと頁を繰って、当時の僕がもっとも心惹かれた箇所が二箇所あったのを思い出して、それを確認した。

 ひとつめの箇所は、主人公のわにくんが、ナイルから汽車に乗って、はるばるパリまでやってきて、カフェで一服する。しかし店にいる他の客は、皆一様に疲労してぐったりしている。わにくん以外の、店内の全員がだらしなく椅子にふんぞり返って、まるで死人のようにぐったりしている場面。

 細かい話の筋や場面は全然おぼえてなかったのだが、なにしろ待合室的な場所で、人間がみなだらしなく椅子にもたれかかっている。これは当時の僕にとって、じつに衝撃的でもあり、妙に腑に落ちる場面でもあった。そうそう、大人ってなんでこうなのか。普段は、どの大人もみな、表面は取り繕って元気そうなのに、実はことあるごとに、かくれて、みんな死体のようにうなだれているばかりだ。前から感じていたそのことが、目の前にこうして平然と描いてある、そういうものにはじめて出合った。その衝撃として記憶に残ったのだ。

 あとは、わに皮の店に着いて、衝撃の事実を知ったわにが、おもわずうつくしい売り子のソフィーさんを食べてしまう場面。わにのでかい口に、ソフィーさんはすっぽりと入り込んでしまっていて、絵を見るかぎり、わにに食べられた、というよりも、自らわにの口に飛び込んだかのように見えた。

 大きくひらかれたわにの、鋭い歯が適度な間隔をあけながら規則正しくならんで生えているその口に、ソフィーさんの身体はすでに、半分以上飲み込まれていて、膝上丈の、ドレープがうつくしいスカートと、少女のように可憐な脚線と、はかなく脱げ掛かった靴だけが、これから順々に、わにの体内に取り込まれようとするまでのあいだ、ぴたっと静止して、そのときを待っているかのような場面。

 たぶん当時の僕は、この場面にある種の感動をおぼえたのだと思う。大げさに言うと、ある意味、この絵は僕の人生に只ならぬ影響を与えたと言っても過言ではない。性的興奮、と言ってしまうとわかり易すぎるのだが、しかしそれに近い刺激ではあったのだろう。とにかく今、自分の内面をざっと検索してみて、自分の中に眠っているもっとも古いセクシュアルなイメージ、というか、まがまがしくて近づきがたいながらも、ほのかな官能性をおびた、蠱惑的な、まるで得体の知れない存在が立ち去った後の空間に、濃厚に残された残り香のような、そのかすかな最古の記憶として存在するのがこれである。


 …その絵本を見てから十数年後、十八歳となった僕は、かつてこの絵本を見たという事実を忘却したまま、大学に入学して、美術を専攻した。そして、その段階になって唐突に、ふいに甦ってきたイメージにとらわれて、自分がとり付かれているその衝動が何なのか、まるでわからぬまま、闇雲にイメージを組み立てて、結果的にはこの絵本の、先述の場面とまったく同じ構図を「作品」に仕立てようとしたのである。

 躍起になってエスキースを繰り返して構想されたイメージとは、横長の画面の半分以上に巨大な口腔部をもつサメのような生き物がいて、大きく開かれた口に、人体が半ば飲み込まれようとしている、という、そういう「構図」、というのか、そういう「ストーリー」、というのか、…とにかくそういう、とにかく、そういう風な、何かそういう形態のものに、そういう人体のようなものが、今まさに飲み込まれようとする瞬間。

 …というか、そういう情況全体…のようなものを、しかも、通常なら絶対にありえないような構図で、すなわちそのような情況が、通常であればその位置、その視点からでは、絶対に目視確認などできないような構図で、つまり一度すべてが終わったあとの図解的な構図で、例えていえば自動車の図鑑や飛行機の設計図のような方式の、座標情報にすべて変換できてしまうような確定後の地平にて、その得体の知れない形態に、ある種の人体が、飲み込まれようとしている、いや、既に半分がた、飲み込まれてしまっている情況、その刹那を、事後的な図像として、何とか描こうとしていたのだと思う。

当時の僕は拙いなりに、絵画の形式とか、テーマとか、そういう話は人並みにわかっていた、というより、そういう話がやり取りされている場があるのは、知っていたつもりではある。しかしそんな事とは何の関係もなく、描かれなければならないものというのはあって、それは自分が稚魚を放すようなもので、如何にこの世界に自分の稚魚を泳いで成長させてあげられるかを考えなければいけないのだと思っていた。というか、そんなことすら考えてない。現実は厳しかった。思ってたのとずいぶん違う。まあ、どう頑張っても、たぶん死んでしまうよ、としか思ってなかっただろう。

 しかし、そのときにおそらくその、自分が解き放とうとする稚魚。その中に、決して欠けてはいけない要素として、確実に含ませなければいけない要素として、想定されていたものが、このうえなくうつくしいたわみ皺を寄せるスカートの皺であり、膝を揃えて飲み込まれていく可憐な二本の脚であり、脱げかけた靴のエナメルの光沢であり、それらすべてが過不足無く、製図の方式に従って刻まれていなければいけないという思いだったのだと思われる。

 というわけで、以上述べてきたこれらがすべて、源泉に紹介した絵本「わにくん」によって植えつけられたイメージであるというのは現在の地点から考えるにほぼ間違いないものと思われる。

 しかし結果的に、構想されたその作品は完成することがなかった。それどころかエスキースが重ねられるばかりで、遂にタブローに取り掛かられる事も無いまま、企画の段階で打ち捨てられてしまった。やはり具体的なイメージとなった際に、ちょっとやそっとでは決して「面白い」ものにはならないというのが容易に想像できてしまい、その想像の確認みたいな作業に落ち込んでしまって、結局エスキースのレベルで飛躍的なものを掴むことが出来ず、この仕事はそのまま頓挫してしまったのである。

 しかし、今思うと、どうせ絶対に、つまらないものになっているような気がして、描かなくて良かったとも思う。そういう保身の安堵感はある。でも、その一方で、つまらない結果になってもいいから、描くべきものを描くしかないのではないかとも思うのだ。しょうもないものをいっぱい描く人々がいっぱいいて、あらゆるものの99%はゴミであるという話が事実だとしても、でもその言葉を先取りして自分の中に生まれてくるものをあらかじめ殺してしまう事もないじゃないか。あらゆるものの一つとしてでも、この世に生み出してあげればいいじゃないかとも思う。

 「わにくん」という本にしても、べつにこの絵本は素晴らしいですよ、と言いたいわけではない。今日久々に見て、懐かしいけどまあ、はっきりいって、なんてことない本だとは思う。ちなみにそのほかにも、昔、子供の頃に読んだような、とても懐かしい本を、今日は何冊も、ひさびさに読み返すことができて、それぞれ大変懐かしかったのだが、それはそれとして、本自体はまあ、はっきりいってどれもこれも、別に大したものじゃないとしか言いようのないものばかりだった。

 絵本の、これが優れているとか、この絵は美しいとか、そういう話もなかなか微妙だ。少なくとも今の自分が「年端のいかない小さな子供」に見せたい、みたいな発想なら、ここにある、いろいろ字や絵が書いてある本の、これがいいとかあれは駄目とか、そういうのはほとんど判断不可能である。というか、そういうのって、なんとも気持ち悪い。ゆえに、まあどれでもいいよ、という結論になってしまうのだが、でもまあ、それはそれで、良いも悪いも無く、勝手に読んで勝手にその一部が記憶に残って、なんだかよくわからないまま生成変化したり発酵したりするのであれば、それはそれでいいのか悪いのか。…と、ここまで来てつまらない話になった。というか、まあ児童書とか絵本というものは、読んでみると思ってたよりもつまらないなあ、ということかな。


 四時五十九分ごろの空を見ながら帰る。西の空がかすかに朱に染まっている。ぜんたいに、もうかなり暗い。群青というか、みずいろに暗い濁りが生じたような色。こういう空の色は、冬特有の色だと思う。夏の時間なら七時前とか、そのくらいの色合いには、似ていない。暗さとしては似ていても、色が違う。こういう色合いは、夏にはありえない。冬だけの空の色。