大王岬の夜


 最初から、夜の暗闇に、奥行きが感じられなかった。

 吐く息が、冷たい風になって自分の口元あたりにすぐ跳ね返ってきた。

 油の黒光りする壁に向かって歩いていた。

 壁を突き抜けると、またすぐに壁の気配がした。

 分厚い壁の中に、さらに細かい壁の層があって、その薄い膜をたえず破りながら進んでいるようにも思えた。

 進むにつれて、呼吸が苦しくなるようでもあった。


 遠くを見ると、群青色の夜空の中程まで、黒い山が仕切っており、その先には灯台の光が静かに光っていた。

 灯台の光は、音もなく旋回していた。光が強まり、やがてフェードアウトし、数秒後にふたたび強まり、ふたたびフェードアウトした。

 星が多く出ていたが、首元に寒気の侵入を許すのが嫌で夜空を見上げるのは憚られた。意を決して、ぐっと頭を逸らして夜空を仰ぎ見たとしても、十秒もすると寒さで首をすくめることになるのだった。


 波の音がする。いま、港から突き出た堤防の途中に立っていた。自分の四方数メートル先は、黒々とした海の水だけだった。波の音につつまれている。人の気配はない。

 さらに歩くと、排気ガスの濛々と立ち昇る匂いがただよってきた。裾から膝下にかけて、暖気が上って来た。軽トラックが一台止まっていた。エンジンがゆるゆると震えていて、真っ白な排気ガスを狼煙のように上げていた。運転席は無人だ。

 堤防の先へと進む。いきなり進行方向に人がいた。ほんの一メートル先くらいのところで気付いた。堤防の淵に腰掛けていた。毛糸の帽子を被っていた。急に立ち止まって、その帽子を真上から見下ろす格好になった。

 腰掛けているその先には海の、暗黒の広がり。何も見えず、波の音しか聴こえない暗闇に両足をぶらぶらとさせていて、怖くないのだろうかと思った。釣竿の先に、テグスの線がときおり鈍い銀色に光った。水面らしき前方の真っ黒な広がりの先に、オレンジ色の浮きがゆらゆらと揺れているのもかすかに見えた。釣竿を暗黒に挿して、何を釣ろうというのか、かえって釣られてしまい、有無を言わさぬ力で向こう側へ一気に引っ張られてしまうのではないかとさえ思うが、釣りをする人の気持ちはよくわからない。


 視線を元に戻してももはや、目を開けていようが閉じていようが、ほとんど一緒なくらい、もう何も見えなかった。真の暗闇だった。

 波の音だけしか聴こえない。

 排気ガスの匂いは、何か別の匂いと混ざり合っていた。匂いだけは今この場所の手がかりであってくれた。


 いきなり、何かが目の前に来た。出し抜けに目の前に、あらわれた。

 でかい青魚のように見えた。マグロが回遊しているのを水族館で見たような気がした。

 目の前を、でかい船が横切っていった。速度はゆっくりに見えた。

 たぶん飛行機だった。船ではなかっただろう。空に浮かんでいたから、船のはずがなかった。飛行機だとすれば、ずいぶん旧式の機体だと思われた。貼り合わされた金属の板のリベット打ちの点々と、ところどころに浮かぶ赤錆まで見えた。

地元の猟師と漁協の組合員と網元の親会社の従業員が毎年ごとにペンキで機体のそこかしこに注意書きを殴り書いている形跡まではっきりと見えた。機体の塗装とその上のペンキの層が刻まれた年月を地層のように見せていた。

 たぶん、横から見ていて、羽根が見えなかっただけだ。あれは船ではなく飛行機のはずだ。しかし船のようでもあった。船底に苔や藻や貝殻がたくさん着いていたようにも思えた。強い磯の香りもした。死んだプランクトンたちの亡骸が赤い雪のように降り注いでいるのさえ見えた。

 魚の下腹部のような真っ白な機体下部が、じつは従兄弟たちの子供部屋から溢れたものを詰めておく物置になっていて、かつて屋根裏部屋で見たたくさんのガラクタや古い雑誌類などが、今ではまとめてそこにぎっしりと詰まっている筈だった。

 プロペラが回っていた。いや、あれはスクリューか。スクリューとプロペラは、どっちが縦で回るのだったっけ?スクリューとプロペラは、いったい何の役目で回っていたのだったか。


 エンジン音が、いつまでも鳴り響いていた。自分の耳の中だけで鳴っているのかもしれないが。波の音がした。水のかき回される音も、していたかもしれない。

 排気ガスが濛々と上がって周囲全体が薄っすらと白い煙につつまれていた。酷い匂いだったが、煙にまかれていると、かすかに暖かくて少し助かる思いだった。


 もうずいぶん遅い時間のはずだった。部屋に戻っても、テレビ放送も全部終わってしまっただろうし、そろそろ帰って、歯磨きをして寝ようと思った。