渡し板


森を抜けて、日の差す場所に出た。さっきまで勾配だった地面が、緩やかに下りはじめて、いつの間にか、ざらざらとした砂地になっていた。しばらく歩くと、やがて行き止まった。地面が、さらに下っていて、先が見えなくなっている。そのまま崖になって真下に落ち込んでいた。おそるおそる前に進みながら、下を覗き込んでみた。谷底は見えない。前を見ると、十メートル以上はある隔たりの向こうに、絶壁がある。下のほうから濃い霧のようなガスがふわふわと浮いてくる。谷の深さは相当なものだと思われる。もしかすると高さ百メートル以上か、そのくらいはあるのかもしれない。左右を見渡すと、右手に橋が架かっているようだ。いや、橋ではないかもしれない。崖沿いを歩いて近づくにつれて、まさかと思ったが、橋ではなくて単なる板だった。板が、向こうの崖っぷちまで、ぱたんと渡されているだけだ。幅は五十センチくらいで、厚みもわりとあって、たわみもないので、板にしてはしっかりしている方だとは思うが、それにしても板は板だ。しかも、長い。向こう側の崖まで届いているのだから、相当長い。何枚かの板を接ぎ木してあるのか。でも、いくらなんでも、この板は怖すぎる。これを、人間がそのまま渡ることを想像したらの話だが、これは、ムチャクチャ怖い。何のために、この板はこうして橋渡しされて、ここに架かっているのだろうか、などと思うが、それはやはり、渡るためだろうとは思うが、しかしいくらなんでも、これほどの高さの谷を、手摺りも何もない渡された板の上を歩いて渡るというのは、普通の人間には無理だ。綱渡りと変わらない。あるいは、ちゃんと命綱をつけて、落ちないように仕掛けをして、度胸試しみたいなイベントとして、誰かが楽しんでいるものなのかもしれない。でも、それにしても、あまりにも単なる板なので、そんな、人々の楽しみみたいな雰囲気は、まったく感じられない。ただの、なんでもない、何の応用も効かない、寒々しいくらいの、素材そのものといった感じの、ただの板だ。でもこれは、あるいはもしかしたら、ほんとうに、人がこれを渡るのだろうか。これは、ひょっとすると、普通に皆、谷を渡るという目的のために、この板を渡って行くのかもしれない。もうずっと昔から、自分の親の世代や祖母の世代からずっと、買い物に行くときや学校に行くときやご近所に回覧板を持って行くときなど日常的に誰でもこの板を渡っていて、あまりにも当たり前過ぎて、すでに安全とか危険とかの意味が掠れて消えてしまっているのかもしれない。手摺りも無い、幅五十センチの板を、平均台のように渡る。いや、平均台だと思ったら駄目で、普通の橋を渡るということで、もし、これが、人々にとってあたりまえのことだったとしたら、僕も、何も考えずに、今ここでひょいひょいと、普通にこの板の上を歩いて、あっさり向こうまで行くだろうか。行く。という世界も、あるかもしれないなとは思う。でも、今この場所が、そういう世界なのかどうなのか。僕だけが、変に怖がっているだけなのだとしたらどうだろう。渡ろうと思えば、たしかに、絶対に無理ではないように気もする。というか、五十センチの幅を歩くときに、踏み誤ったりはみ出したりするだろうか?という話だ。床に五十センチ幅のテープを貼られて、この間をまっすぐ歩けと言われたら、それはおそらく、まっすぐに歩けると思うほうが普通だし、実際にまっすぐ歩けるだろう。たぶん五十センチも必要ないくらいだ。だとすればやはり、こういう板の上を歩いて渡るのは普通だ、という感覚は、別におかしくもないのか。でももし、万が一踏み誤って落ちたらどうするのか、という考えは、それはたとえば、道を歩いていて、急に上から大きな巨大な何かが落ちてきて、それに当たったらどうするのか、というような考えと同じことかもしれず、そういうことを気にしていたら、言い出したらきりが無い訳で、そういうのをひとまず括弧入れして、平静な状態で、じゃあこれはもう、普通に何事も無いかのように、渡ってしまったらそれでかまわないのだと思った方が良いのだとも思える。というか、それをあたかも前から知っていたかのように振舞うことが大事で、内心おっかなびっくりでもどうにか誤魔化して今までやってきたというのが実情であるのは、誰でも彼でも、僕も含めて、だいたい多かれ少なかれ皆がそうなので、その勢いを思い出して、懐かしい安心に浸りつつ一気にやってしまおうと思って、ためしに一歩進んで、左足をその板の上に乗せた。板は普通に、板の感触を足の裏に返す。揺らぎもなくたわみもない。右足もさらに乗せた。身体が板の上に立った。谷底がかすかに見えた。相当な高さだ。まるで飛行機の離陸直後の滑走路を見たときのような高さ。平常心というものが、いったいどこから出てきて、どのように確保されるものなのか、僕にはわからないが、でもとにかく、僕はそのまま、歩を進めて、その板の上を歩いて渡り、途中何度か左右を見渡して、渓谷のうつくしい景色を楽しみさえした。でもこうして歩いていても、昨日二年ぶりに人間ドックに行って、思ったよりも色々と、悪いところを指摘されて、自分の身体も少しずつ崩れていくのだなと改めて思っていたところで、程度の差はあれ、誰でも、少しずつ崩れていく身体に乗っているようなものだなとも思う。というか、こうして考えている自分自身そのものが、少しずつ崩れて、溶けていってるということか。