泳ぐ


カロリー摂取量を控えめにして、脂肪分や炭水化物も控えて、プリン体含有食品も、糖分も、アルコールもなるべく控えめにして、この一回限りの生をなるべく永く持ちこたえなければならない。いつかは朽ちる。この船も永久に浮かんでいられるわけではない。いつかは水が入ってくる。浸水して、水にのまれて、沈む日がくる。その日がくるまでは、できるだけ、各部を丁寧に手入れしないといけない。海の広がりの、胸が苦しくなるほどの広がりが、目の前に広がっていて、一角に二隻の船が浮かんでいる。それが、どことなく滑稽に見える。ばかだなあ。あれはなんで、ああやって、平然と浮かんでいるのか。水の上に浮かんで、静止している。波に揺られてもいない。濃い青緑色の海の上に、まるで貼り付けた厚紙のように、その場に船の形で、じっとしている。宙に浮かんでいるつもりなのか。子供が作った、ちゃちな模型みたいな、いくらなんでも、馬鹿馬鹿しいじゃないか。あそこで、冗談みたいに、ああして、乗客を乗せてゆったりと停泊しているような、澄ました態度でじっとしていて、いったいこれから、何をするつもりなのか。そこに水面のあることを、さっきからひたすら示そうとしているとでもいうのか。桜もすっかり散ってしまって、道は落ちた花弁でほぼ真っ白で、桜のほかにも、ユキヤナギも白い花を地面に盛大に落としている。小川のほとりのユキヤナギがいっせいに花弁を川に撒き散らしていて、おかげで川面が花弁であらかた真っ白になっていて、岸辺や水面から飛び出した小石の周りに白い花の集積がまるで隈取りされたように溜まっていて、小川の流れが白いネオンでデコレーションされたようになっていて、しかしそんなことは、どうでもいい。十年ぶりとまではいかないが、でも少なくとも七年か八年ぶりくらいで泳いだ。かつて、小児喘息やらアレルギーやらを患ったことのある、カンボジア難民のように痩せた子供が、体力を養うために、当時は水泳が奨励されていて、僕も小学生の頃から屋内の水泳施設に通い始めて、その後、中学を経て高校2年の半ばまでは、部活動で水泳をやっていたせいもあり、今でも、船のように浮かんでいることもできるし、手足を使って泳ぐこともできる。競泳選手としての能力はなかったため、タイムアタックにもレースにも充分な成果を上げることはできなかったが、今でも泳ぐことだけはでき、泳ぐというより、浮かんで進む、ということか。ひとかきして、ひとけりして、伸びて、再度ひとかきして、ひとけりする。それで、波が頭から左右二つに分かれて何重にも重なり合って波紋を広げてやがて岸辺へ到達する。波をかき分けて進む。進むたびに水が、ぐっと後ろの方へ流れ去る。白い花弁が洗濯機に巻き込まれたようにくるくると渦を巻く。今日は久々に今、泳いでいると思った。ずるずると、いつまでも泳いでいることができた。ゴーグルが顔のかたちに合わず、視界が激しく曇った。カロリー消費を促すために、少しペースを速めて泳いだ。主に負荷が、肩から胸にかけて懸かっているようだった。次第に、低い温度で燃えるような疲労が、体内にこもりはじめた。ついに何往復したかわからなくなり、時計が二十分ほど経過した。脂肪分解酵素リパーゼが働き始めていた。プールから上がって、おどおどとした態度で慌てて着替えた。帰ってから鏡を見たら右目だけがぎょっとするほど赤く充血していた。