霧の中の風景


 北千住にてアンゲロプロス霧の中の風景」を観る。なぜ登場人物が子供二人なのか?と思いながら観ていたけど、映画はまさにあてのない、根拠も目的地も見えない流浪、漂流、エグザイルそのもので、それはほとんど誰がなぜ彷徨っているのかということなどどうでも良くなるくらいの、身を守るすべのほとんどないいたいけな存在がよるべなく彷徨う…という、堂々と子供二人を、豪雨の、まるで水中のようなすさまじい土砂降りの中や、濃密で奥行きのなさがおそろしくもあるようなグレーの背景の中にひたすら彷徨わせて、寓話のように、夢のように、果てない絵巻物のように場面のできごとが繰り広げられていく、という、いつものアンゲロプロスの王道的な味わい。あるいは、「蜂の旅人」の話が、ひっくり返っているようにも思えて、「蜂の旅人」では彷徨する初老の男性に若い女が介入してくるが、「霧の中の風景」では子供二人に対して、若い男が途中で保護者的でもあり友人的でもあり恋愛対象でもあるようにして入ってきて、こういう、一方的に介入してくる、どうも都合の良いような、ほとんど善意だけみたいな、絵に描いた餅みたいな人物が出てきて、それが主人公にとって何かの影響をあたえるのだが、結局は別離がおとずれるというのは、「蜂の旅人」も「霧の中の風景」もそうで、しかし本作での、この男は非現実的なくらいにに、ものすごくいいやつで、旅行く二人を助け、バイクで三人乗りして海辺を疾走し、この三人が一緒に行動するシーンでは、アンゲロプロスの映画とは思えないくらいの、このうえない幸福感が画面にあふれるので、このまま楽しい感じで最後まで進んでくれてもいいじゃないかとさえ思うのだが、やはり物語としては、痛ましいもので、しかし全編、アンゲロプロス的様式美のオンパレードで、終盤も深い余韻をたたえて、すげえなーと思いながら画面を見るだけだ。

 でも、こういうふうに子供が主人公というのは、やっぱり少し観ていて戸惑うところもある。どうも、小さな男の子の正面からの顔のアップとか、何を見ればよいのかよくわからなくなるような気になる。女の子の方は後半どんどん顔が変わっていくので、実質、子供ではなくなっていくのがよくわかるのだが、男の子は男の子で、ラストシーンも、これは…という感じ。ただ単に、涙を誘われればいいというだけのことかもしれないが…。