永遠と一日


 これはやはりアンゲロプロス作品の中でも飛びぬけて傑作という感じがする。

 冒頭の、もう亡くなった妻が画面の脇からふっとあらわれて、そのまま妻や親族たちとの会合へ当たり前のように移って行く流れから、圧倒的に素晴らしい、アンゲロプロス的世界への旅である。

 今ここにいる場所から、地続きで、そのまま過去の記憶・回想に移っていくということの、ほとんど罪の味さえおぼえるような、あまりの甘美さ。現実の空間にいる主人公の、見つめる視線の先に、カメラがぐるりと向くと、そこには、もう既に亡くなった筈の、まだ若くて溌剌とした妻の後姿があり、さらにその向こうには、素晴らしく晴れ渡った青空と、砂浜と、海が広がっている。時間と空間が、今目の前に、地続きで繋がってしまっている世界の、それがこのようなことであらわされて、それで良いのかと思わされもするような、しかし抗いがたい愉悦感。

 過去の、娘が生まれたばかりで、親族が集まってきて、お祝いだ。孫のゆりかごを揺らす、主人公の母の遠い目。人々が集まってくる。皆で踊る。「ユリシーズの瞳」の、家族集合のシーンもそうだが、この映画でも冒頭から親族が画面の正面に集まってきて、それだけでもう感極まる。

 太陽の光につつまれた、記憶の中の人々との会合。その甘美さ。そして同時に、その妄想の、なんという孤独な身勝手さかとも思う。結局、死ぬ前には、こういう個人の頭の中だけの、妄想的な過去の回想しかできないものかと思って、何とも心が落ち込むような思いもある。たぶん、この映画のさまざまなシーンが、うつくしければうつくしいほど、そのような、もの悲しく、孤独の檻の中の一時的な明かりのような、はかない色調をおびている。

 そして、あの犬はいい子だった。

 あと、少年を金を払って引き取ったあと、サンドイッチを食べている壮年と主人公の二人を、さっき取引した相手三人組が、トラックの荷台に乗って通りかかって、じっとこちらを睨んだまま、そのトラックが通り過ぎていくシーン。まったく小さなエピソードでしかないけど、ああいうシーンはほんとうに凄い。ああいうのを、よく思いつくものだと思う。

 あの結婚式のシーンも、今まで何度か観ていて、やはり良いのだが、まあ、今回はさすがに、これはでもまあ、なんか笑うといえば笑ってしまう。でも、それでもやはり、新郎と新婦が踊りながら海辺に近づいていって、海が画面に入ってきて、それを椅子をもって親族が後に続いていくときは、やはり、ああそうだね、これこれ、と思う。

 そしてもう一つ、バスの中のシーンも、これもやはり何度みても良い。もう「良い」と言うだけみたいな、ほとんど気持ちよくて陶然としているだけみたいな、そういう甘美さだけのシーン。最初に乗り込んでくる赤旗を持った青年が、くたびれた体をやすめてずーっと居眠りしているのが、もうそれだけで良いのだ。そして女学生の残していった花束、それを拾い上げて下車していく中年男性。乗り込んでくる若者たちの楽団。乗客に無関心な車掌。ひたすら笑顔で見つめる主人公と少年のふたり。

 この映画は、ブルーノ・ガンツの顔がすばらしいというのもあるだろう。

 また、奥さんのワンピースも良いし、というか、ああいう格好をさせて笑顔をふりまく妻の過去の記憶っていう時点で、もうはげしく感傷的過ぎる。

 ある意味、勝手なものだという風にも思われ、どうにも、辛さ、苦々しさをクスリで癒しているような、何とも痛ましく、寂しいものを感じるのだが、しかし甘美でもあるという。じつに当たり前なことになっていて、複雑でもある。まあだから、正直もう、こういうのは、もういいかなと思う気持ちもあるにはあるのだが。

 この主人公は作家で、世間的には名声を得ているが、今までの仕事には満足しておらず、何も書けていないと認識していて、単に長年かけて、下書きを書き散らしてきただけだと述懐する。十九世紀のある詩人について研究していて、そこに彷徨うしかない存在としての人間と、その人間にとって、心の安住を感じさせるための言葉、ある確かな、何かを示す、ぴったりとした、そういう言葉を見つけられたらという。

 最後のシーン。少年から「買った」言葉を何度もつぶやく。自分から発された言葉は、むなしく消え去っていく。しかし、かすかに、主人公の名前を呼ぶ、妻の声が聴こえる。

 この最後のところはやはり感動する。感動というか、なんとも言えない思いなのだが。