毎朝、寝覚めが悪くて、起きるのが本当につらい。毎度、あと五分でもいいから眠りたいと思っていて、きっと週末になったら、うんざりするくらいたっぷりと寝てやろうと、いつも思っている。にも関わらず、いざ週末の朝になると、なぜかいつもと同じ時間に起きてしまう。ここぞとばかりに二度寝しようとしても、もう眠れなくなっている。せっかくの休みの朝に、これほどがっかりするこはない。しかも前日は結構遅くまで起きているので、睡眠時間でいえばせいぜい三時間とか、いつもよりさらに少なくしか眠ってないのに、起きるしかないという、情けない状態である。

 外を見ると、うす曇の午前中という感じで、出かけるのか出かけないのか迷いながら、もぞもぞとうごめいていたが、やがて、日が差してきた。出かける直前には素晴らしい秋晴れ。着る服に悩んだ。薄手のコートを着た。

 表参道から田園都市線直通の半蔵門線へ。二子玉川大井町線に乗り換えて等々力で下車。本村誠さんの個展を観にスペース23℃に向かう。

 等々力はこじんまりした駅で、改札を出て商店街を抜けて、住宅街を十分も行くと、ギャラリーの看板がある。

 看板があるだけで、ギャラリーらしい建物はなく、普通の一軒家があるだけで、表札を見て、たしかにここがギャラリーだとわかるが、それはこのギャラリーが、榎倉康二宅の一部を改造したものだということを、僕が知っていたからである。しかしどこでそのことを知ったのかはよくおぼえてないのだが。

 普通の、まさによそのお宅の玄関という感じのドアを開ける。鍵はかかっておらず、ドアはすっと開く。中に入って、靴を脱いで、置かれたスリッパに履き替える。そうして、展示会場に入る。

 空間が広がっている。そして、窓の外から光が差し込んでいる。強い日差しである。この季節特有の、濁りのない、それゆえなんの逡巡もなく一直線に届くような、ほとんど無遠慮な、対象のニュアンスをあらかた消しつくすかのような、白く鋭い光である。今が、そういう光の充溢した季節なのだ。

 僕が美術の作品をみるときに最近よく思う事の一つとして、自分が如何にその作品と同じ時間と空間を共有したかということがある。

 作品は作家によって作られる。作家が一人で、アトリエで孤独に作品を作り、それを眺めて、良いと感じた、その夜が、そのままこの、明るい光に満ちた展示会場に、ただしその枠型としての、ものだけが移管しているということを想像する。

 展示会場の作品をみて、作家の制作している時間やそのときの在り様を想像するという意味ではない。あくまでも展示会場の「それ」が、もう逃げようもなく、どうしようもなく「作品」なのだが、それゆえに、作品はいまここではない、どうしようもなく今ここだけではありえないような、可能性、潜在的な複数性のようなものをはらむ、ということである。それは作家の制作していた夜でもあり、また別の誰かが別のコンディションでその作品を観たときの別の日でもある。

 僕は最近、いつもそれが、不思議に思うのだ。僕は何をみているのか。今ここで、こうありえたものをみている。同時に、あのときの、今の、こうはありえなかったという、その喪失した結果をみている。というような。

 しかしそんな、僕のこの考え方では、それじゃあまるで、お墓参りだな、などと思う事さえある。と同時に、ところで何をみようが、結局は、僕のなかでは、お墓参りなのかもしれないな、とも思う。お墓参りといっても死んだ人ではなく、誰かの、かつての過ぎ去ったある時間を弔うというのか、それをみるという。弔うと言ってしまうと、いきなりどうにも誤解の元だが、そういう喪失は当たり前のようにこの世界に発生しているのだから、すごく当たり前の弔いというのもあるはずで、作品をみるっていうのは、そういうお墓参りであり、お弔いではないだろうかと。いや、冗談のような話だが、この日の帰りがけに妻は冬の喪服を買ったのだがそれは別にどうでもいいことだが。

 それにしても、こういう気候を小春日和というのか。うつくしい光に満ちた、端正な空間の中の作品たちを見て、ギャラリー主の方とお話をして、しばらくのあいだ、その場と時間を味わうことができた。話をしていて、その途中で僕は、いきなり腕をペンと叩かれた。ごめんなさいね。蚊がいたのよ、と。たしかにかなり大きな蚊が、ふわっと立ち昇るかのように悠々と上昇していった。ああ、逃げられましたね、と言った。虫がいるのよ、けっこう。でもこの季節にまだこれだけ虫がいるなんて。すごい。いいですね。いえ、毎日だとそうは思わないですよ。

 窓が大きく、自然光がふんだんに注ぎ込むので、天候が会場のコンディションを大きく変える。これがとても快適で、晴天だったことの気持ちよさを堪能したが、おそらく曇天なら、あの空間はまたそれなりの、うつくしい色合いを見せるに違いない。むしろ曇天の繊細な陰翳のニュアンスの方がよりうつくしいかもしれない。

 壁に、厚みのあるアクリルパネルで二重に封印したような、額装というよりは、標本化というか、採取されて保存されたかのような、額物によって絵画を真空パックしたかのような、あるいは瞬間冷凍したかのような、絵画と呼ばれる何がしかのある種のパッケージ品ようなたたずまいの作品が並んでいて、しかし絵画的な出来事とか、絵画がもたらしてくれる何か、というのは本来、鑑賞者が対面したその場で、いまはじめて開栓されたワインのように、その時点ではじめて生成するものであるが、それがまだ開栓前の時点で、誰からも見えない場所に隠されているという訳ではなく、最初から白日のもとに晒された状態で存在しているので、密閉して保存・保管するようなものとは根本的に構造が異なる。それゆえ額縁やアクリルケースは絵画を物質的には外部から守るが、それよりほかの効能はないものとされる、そのはずだと思う。

 だから、なのか、にも関わらず、なのか、絵画に付属する額縁やケースというものが「守る」とか「防御」という意味を強くおびているように、いつも僕は感じている。それはおそらく僕という属性に固有のもので、そのような感覚を自分の趣味というか嗜好に近いところで自覚する部分もある。つまり、僕は額縁やケースというものに抵抗感と魅惑の両方を感じてはいる。

 絵画は、物質的にはただしく適切な方法によって保管されるべきだが、その作用の完全性は、保管・維持状態と無縁に、常に保証されている特質をもっている。誰がいつどこで見ても、その効果は一定であってしかるべきである。というのはどのくらい通用する話なのかよくわからないが、論理的には僕はそれが適切な定義だと思っている。

 絵画は完全性をみずからの内に内包しているのだが、同時に最初から額縁を内包しているし、それが展示される空間さえ内包している。

 その延長で、絵画は制作途上で、ある出来事を成立させるための行為と、それを継続させるための行為の二つが同時に記録される。

 行為は混濁した情況下で行われるので、それらを明確に分別はできないのだが、あることを指し示すものと、それを留め置き、維持させるものが、同一であるというのが、絵画のありかたの基本だということは言えるのか。

 そのようなことを、午後の時間の流れの中で、等々力渓谷の途中まで、水が土に沁み込み、泥濘がぎらぎらと陽光を反射し、上空から目まぐるしく木漏れ日の明滅するなかを、歩きながら考えながら、そのように時間の流れてしまうことを同時に思い、そういう考え方ではどうしても、こうして時間が流れていることを勘定に入れてないところがダメなのではないかと。何かもっと時間と共に流れるような感じに考えられないかと・・・。

 今、ここで起きている事が、別の空間では、あるいは別の時間では、こことは異なる世界では、そうではないというのはなぜか。

 あるいは、今ここで何も起きていないのに、別の空間では、とんでもない勢いで、自分の意図だの思いだのとはまったく無関係に、とてつもない勢いで光輝きはじめるのはなぜか。

 作品というものの手に負えなさ、どうしようもなさとはここにあって、そのような出来事の中を行くようにしか行けない。どうしてもお墓参り、幽霊とのお付き合いになっていくのか。

 世田谷は縁がなく、初めての土地を歩いている感じが面白い。高級な住宅街を抜けて、高級車のずんぐりとした車体のすぐ脇を抜けて、やがてふたたび駅に戻った。二子玉川駅に戻って、多摩川を見た。表参道に戻って、あとは千代田線であっというまに地元に戻る。近いような遠いような。