日差し強く、蒸し暑い。ここ最近の夏を思わせる日。神奈川県立近代美術館の松田正平展に行く。だいたい予想していた通りで、つまり、ほぼ安定的に良いだろうと思っていて、そのとおりだったのだが、しかし思った以上に良かったというわけでもなかった。うまくいうのは難しいが、おおむね満足。そう、おおむね満足した、という感じだ。ただ、やはり落としどころがわかり易過ぎるきらいは否めない。いや、落としどころのわかり易さ自体は瑕疵ではないと思うし、どこに落としたってかまわない。そういうことは大した問題ではない。問題は、目のよさ、感覚の細かさ、というところだ。それが、たぶん松田正平と言ったら、日本近代洋画家のランキングでは、相当上位に入ることは間違いないと思うが、世界の大御所と較べたら、やっぱり桁違いということになってしまうかも、などと思ったりした。


それが別に、世界と較べてレベルがどうこうとか、そういう話は別にどうでもいいのだが、しかし、人間がそういう、絵みたいな物質の出来事に関わろうとするときの、その事前に感じるであろう不安、おそれ、恐怖というものが潜在的にはあって、緊張や注意力、攻撃性や防衛本能や、そういう、キャンバスの前で実際に行為を始める前に、いったいどれだけの、わきあがる抵抗粒子をくぐり抜けて、物質としての出来事に関わったのか、そこに関わったのち、やがてその痕跡を見捨ててきた、そのあとの無人の時間という、そういう、おそろしく端的な結果としての凄みというのが、絵画とよばれる、ある種のモノにはあって、というかそれがつまりモノとしての絵画に触れたということの驚きなのだが、松田正平の、マチエルのかすれ、引っ掻き、削れ、や、このうえなくうつくしい色彩の重なり、層の堆積は、それが人の自分がそれを、うつくしく感じて、自分の枠内に陶酔させてくれはするが、引き換えて、たぶんそのような外的なモノとしての冷たさを、いくぶんかはうしなってしまっており、本来もっとあったはずの、ひんやりとした過酷なところにまで届いていないのかもしれない、というような想像的不安の気分に、終始、とりつかれていないわけではなかった。


その絵の前で、描いた人間のやったこと全部をかりに、それ一回あたりの価値、みたいな換算の仕方はつまらないかもしれないし、そういう言葉もつまらないかもしれないが、とりあえずそんな価値換算をした場合、これではまだ、今ひとつ安いというのか、もしマティスだったら、この価値基準では全然レート的に釣りあわないというか、そういう土俵の違いというのか、いや、もっと簡単に、もっとたくさん詰め込んであって、いくらでも豊かな絵もある、みたいなことを、ぼやっと思ってしまう。


とはいえ、結局は別に不満でもなんでもなくて、やはり力量としてはとんでもない画家の作品を観るのは面白くて、とくに周防灘のシリーズは、理屈抜きに良くて、これは自分のコンディションによっては、たとえば心の弱っているときであれば、閉館時間までずっとこの部屋にいて、自分を慰撫するかのように、いつまでもこれらの絵をひたすら見続けているのだって、悪くないだろうと思わせるようなシリーズであった。また裸婦を横たわらせた絵が、異なる時期に描かれたもので二点か三点あって、どれもなぜか、方法の違いを越えた対象に対する妙な生々しさの感受というか、不思議な迫力があって気になった。


展示としては、二階の展示室1と2の比較的小規模なもので、展示室を出て階段を降りて、池に突き出たテラスみたいなところのベンチに座っていて、あ!っと思って、よくよく見たら、驚いたことに、先週、浜離宮公園にいたヘビが、またいた。やはりあのときと同じように、池をするすると泳いで、少し離れたところの陸地に上がって、するすると草むらの中へ消えた。前にも書いたが、はじめて見たのが2009年の秋頃。そしてちょうど一週間前に、品川で4年ぶりに再会して、次はまた数年後だろうと思っていたのに、なんと今日、たったの一週間で再見となった。なぜなのか。何か、伝えたいことがあるのか、あるいは思わせぶりなしぐさをしたいだけなのか。この夏、もしかするともう一度か二度くらいは、会うことになるのか。