妙な夢から覚めて、またすぐ眠って、また別の夢の中にいて、そんな状態のままで、気づいたらもう正午に近い時刻になっていた。昨日飲みすぎたようで、起きたばかりなのに、かなりくたびれている。昼過ぎから上野へ行く。天気はいいが、太陽が暑くて、それで汗が出るといつまでも汗が引かなくなって、どろりと身体の芯のところに疲労感があり、何か呆然としてしまう。素晴らしい天気だと思いながら、でもこの天気に潰されてしまいそうだと思う。


ターナー展。まあまあ混んでるけど大体予想してたくらい。ターナーは物凄く新しく革新的な仕事をしているようにも見えるが、やはり18世紀の画家なのだなと改めて思った。19世紀や20世紀に引き継がれる革新的な何か、というよりは、やはり当時の、ロマン派としてのもっとも最良な成果の結実。ということなのだろう。


超巨大なスケールの大自然と、点のように小さな人間の営みが対比される。海や山々やローマの建造物などと、帆船や小さなボート、群集などが、ほとんど光と空気の渦の中にすべてが溶け込んで消え去ってしまうかのように、茫漠とした筆致で描かれる。光は強烈に分厚い絵の具の堆積そのものとなって画面に留められている。まるで絵の具の質が光そのものを封じ込めているかのようだ。それは油彩画の色と質として、この上なく美しいものであり、何も考えずにただそれらを観ているだけで充分に楽しい。


そして、19世紀の半ばには、これらの美しい作品たちの呼吸方法とは違う、べつの営みが始まるはずだ。ターナーの分厚い絵の具の層と、たとえば半月前にポーラ美術館で観た素晴らしいクールベの一枚の、あの分厚い絵の具の層との、似ているようでいてなんと違うことだろうか。ターナーはおそらく、自分が描いた作品の、それらの絵の枠の中に、すっと手が入れられると思っている。どれほど画面が抽象的になろうとも、そこには我々のいる場所と地続きの、というか我々のいる場所のミニチュアみたいなものとしての空間が想定されていて、だからどの作品でも、枠の向こう側に行けるという思いがある。たとえそこが、光と渦の嵐状態だったとしても、それはそれだ。しかしクールベは、たぶんそのようには考えなかった。大胆にも、そのように考えることをやめた。なぜだ。なんと酷いことをしたものだろうか。改革。乱暴きわまりない提案だ。たくさんの人々を犠牲にして、それまでをすべて葬った。物質としての絵画。表面は表面で、決して枠の中に手は入らない。ただ、絵の具の層があるばかりだ。クールベの描いた森の、それまでのように呼吸することをやめてしまった画面を、ターナーが観たらなんというだろうか。こんな料理の方法があるものか。浅はかだ。短絡的過ぎる。そんな事を言うだろうか。でもたしかに、これも一つの大事実だとは思うけどね。それはそうだよ。私にもさすがに、それはわかるよ。だから、観たときに、すぐにわかったよ。いや、私にだって、こういうことのすぐ近くに自分がいると思ったことは、今までだって何度もあったんだよ。…でも、まあいいや、これからも貴方が、やるならやればいいじゃないか。大いにやったほうがいいよ。とかなんとか…。