生牡蠣で、あ、これは…と思ったのを食べたことはあるか。


普通なら、海の香り、磯の香りがして、口に入れると、潮気が口内いっぱいに広がって、まるで海水を呑んだような、あらかじめ調整済みの食物とは根本的に違う、手の施しようがないほど自然な、自然そのものの暴力的と云っても良いような、その硬質な、水分と鉱物と塩分との混ざり合いが口内から胃の腑にまで落ちていって、体内が海の生き物と同質になったような錯覚を引き起こすような体験であるはずが、そうではなくて、あ、これは…と思う。


海の香り、磯の香りではなくて、まず、午前十一時くらいの魚市場の香りから始まる。これはこれで、馴染みのある、懐かしい香りようで、あれ、これ…と思う。身も、殻の内側にも、昼前の市場の香りがする。すなわち、少し太陽に晒された、少し疲れたような、ふと気の抜けたような、その隙に、わっと最近と微生物が繁殖の準備を始める寸前の、その香りだ。


あー、これ、うわぁ、これは…やばい。と思う。でも、吐き出そうとは思わないのが不思議だ。むしろ、かみ締めて、知っておかなければという気持ちが強まる。知る、知って、死ってもかまわないから、知ることが大事だ。うわぁ、これは…やばい、と思いながら、顔が笑っている。うわぁ、これは…やばい、うわあ、やっちゃったよ。顔が爆笑のかたちになっている。うわぁ、これは…やばい、うわあ。


牡蠣の身の、全体ではなく、ほんのりと、上に覆いかぶさるようにして、その侵食的なにおいは漂っている。部位によって、匂いに強弱がある。ところどころ、驚くような強さの箇所がある。ああ、これは助からないと感じる。くさや、という干物があるけど、一瞬、あれを思い出すほどの、きつい香りが鼻の奥にかすかにくる。


でも、吐き出すことはないのだ。むしろ、呑むのだ。ぐっと、のみほしてしまう。あーぁ、食べちゃった。でも、勘だけど、この程度なら、たぶん大丈夫。世間は生牡蠣を警戒し過ぎで、大げさに騒ぎすぎるのだ。これくらいならまず平気。わかんないけど。


本当は、重油にまみれた藻や、コンクリートにこびりついた苔なんかも、腹いっぱい食べたりしたいのかもしれない。