読んでいるブログが色々と多数ある。全部で何個あるのだろうか。インターネットにつながって、ブログという手段が、これだけ世の中に浸透してから、もう何年も経つ。


僕のおぼえている限り、日本でブログという言葉が聞かれ始めたのは、今からもう十年以上も前だと思う。インターネットにおけるこれまでの様々なサービスと同様、ブログも海外からそれはまず「仕組み」として紹介されたのだと思う。すなわち、インターネット上に散らばる価値あるリソースをあとで少しでも効率的に有効活用するために、個人発信の情報も組織単位の情報も、全部をある程度、同じような規格に沿ったひとまとまりの一個のコンテンツとしてウェブにアップすればいいじゃないか、つまり今までのように閉鎖的なメーリングリストや得体の知れないBBSなんかに書き散らすんじゃなくて、それぞれが自分のサイトに、一つの記事(アーティクル)として情報をアップする。一つのアーティクルは必ず一意に特定可能な住所を持っている(パーマリンク)。記事はアップされると同時に登録先にフィードを配信するので従来のメーリングリスト同様に更新情報の取得は容易だ。そして、それがもし有効だと思えば、他人はそれを自分のブログからリンク(トラックバック)する。こうして様々な場所にあるアーティクルがトラックバック同士でつながっていって、まとまった知の連携網がうまれる。検索性向上のためにカテゴリ化タグ化も大いに可能だ。こういうやりかたの方が、一アーティクルの管理もしやすいし、責任の所在もはっきりするし、何よりもウェブの特性をもっともよく活用できていてスマートだ。だからブログで重要なのは、ブログタイトルを掲げたサイトの単位ではなくて、あくまでも各リンクを持ったアーティクルの有効性、それで決まる。これぞ、ネット上で個人がなんとかやっていけるための、かなり素敵な方法なんじゃないか、みたいな、当初「ブログ」という聞き慣れない言葉にはぼやっとだけど、そういう期待感が貼り付いていたたように記憶する。


今僕の使ってるRSSリーダーに登録されている、フィードを吐くサイトの全登録数でいったら、おそらく二百件とか、もしかするとそれ以上あると思うが、まあせいぜいその程度だとも言える。もちろんそれらのすべてを読んでいるわけではなくて、わりと頻繁に追加したり消したりする。とはいえ、消していいと思うものは常に少なく、ある時期に来たらまた読み始めたり、逆に読まなくなったり、それでも結構長い年月、それらの膨大なリストは保持されていて、おそらく僕は自分のフィードリストを編集する分量自体は、そういう情報をヘビーに使うユーザーから較べると何十分の一か何百分の一に過ぎなくて、自分のリストはいつまでも変わらないのに、登録先のブログの方がいつの間にか消えてしまうような場合がほとんどである。そのことに何ヶ月も経ってから気付いて、それでもフィード自体は残っているなら、登録先が消えてしまってもやはり消去することなく残してあるので、自分の手元の方が現実よりも過去を保持し続けて膨らみ続けている。だから僕の場合は、常に最新のアーティクルを取得しまくるアクティブなフィードゲッター、という感じではなくて、むしろ既に消えてしまったアーティクルをいつまでも後生大事に抱え続けていたい引きこもり的収集家という感じなのだろうか。しかし、それはそれで、ブログ的な仕組みに見事にかなった、じつにブログ文化の理想の実現ではないかという気もする。


ブログを書く、というとき、技術者が仲間に向けてtipsをリリースするとか、実業家が今日飲んだワインの銘柄を書くとか、活動家が声明を出すとか、僕が今日の出来事を書くとか、色々あるわけだが、これはいったい、今やどういう動機に基づいているのか。それを今更のように考えたりもする。もちろん書き手個々の人間は、それがブログであってブログの歴史がどうとか、そんなことは考えてないというのは当然なのだが、しかし、今やブログというのは、いったい何なのだろうか。


おそらくかつて夢見られたような、人まとまりのテキストが分節やいいかげんな単位ごとにばらばらずたずたになって拡散するとか、あっちとこっちが何の脈絡もなくつながったり切れたりとか、そういうことは、おそらくは起きなくて、ハイパーリンクは単なるハイパーリンクでしかないし、どこかにいきなり想像もつかないようなものがあらわれるということは、もうない。というか、そういうことは今まで一度も起こってない。


インターネットはどうして、全体がこれほどまでに個人の日記帳みたいなものになったのだろうか。こんなことが、九十年代に予想できただろうか?今や、みんながプライベートな日記帳を共有しているようなものだ。あなたの書くことと私の書くことは、だいたい同じだと皆が認め合ったからこそ、この事態が実現したのだろうか。…この言い方はまるで、現状批判のような感じに読めるが、そんなつもりはないのだ。他人の部屋のにおい、炊事場や洗面所の感じ、簡単に済ませる食事、玄関を出て目の前にひろがる風景、それらが何もかもが、誰かの記憶として自分の過去に直結してしまう今の情況を、少なくとも僕は、十何年か前にはまったく予想できなかった。今嗅いでいるこの匂いの、なんというおそるべき個人的な、それでいて誰のものでもあるような、得体の知れぬ匂いだろうか。


まさか、こんな日々が来るとは、ほんとうに思わなかったという感じだ。