横光利一「上海」。舞台は1925年の上海で、その強烈な風景を観光的に楽しんでいるという部分もあるが、主人公参木、友人の甲谷らの、だらしなくて無目的で享楽的で、厭世的で自己中心的な日々の生活や内面が、他意なくさらさらっとした筆致で、その他トルコ風呂湯女のお杉、踊り子の宮子、中国人の工女であり共産主義活動家の芳秋蘭、など、それぞれの視点からマルチアングル的に綴られていく。場面の切り替わりも、語り手に意志があるのか無いのかよくわからないような、しかし一定のリズムで朴訥として簡潔に、しかし鋭い風景描写や比喩を随所に散りばめながら話が進んでいく。これがなぜか、全体として大変魅力のある感じで、けっこう面白く最後まで読んでしまった。途中、ちょっと飽きたりする箇所もあるにはあるが、それも含めて全体的には面白いと思える本。


基本的に、登場する男は、実にいい気な人たちばかりである。仕事、金、女がほとんどで、でも日々があきたりなくて、自分とはいったい何なのか悩んでいて、とくに参木は面白いやつで、とにかく自分が上海にいるというだけで、その肉体がそこにある以上、それは日本の領土である、と思うのだ。「俺の身体は領土なんだ。」こういうのって、実にしょうもない考え方だけど、なんか、わかるわーと思って笑ってしまう。


参木にしろ、甲谷にしろ、自分を支えている基盤に、その当時の日本、欧米列強に負けじと多方面で頑張ってる日本の姿がぼんやりとあって、今自分がここにこうしている理由はなぜかを色々と考えたり人と話したりしながら、後付けの理屈をああでもないこうでもないと考えて悩むのだが、甲谷はともかく参木はじつに悩むのが好きなやつで、結論を出したくなくて、ゆえに女性との関係も自分に決断を下せなくて、かなり色々な美女から好かれてモテるやつなのに、どの女からの誘いも結局断って、でも最後は結局いいかげんに…みたいな、こうして思い出して書いてるだけで、今更ながら実にばかばかしいのだが、でもそれはそれで、こういういい気な悩み方、生き方を許容してくれるのが、結局はその当時のたまたまありえた政治経済情勢下のことでしかなかったというのは、人の事を笑ってられない、自分もまさに他人事ではないなあ、と思いながら読んだ。あらゆることは、すべて今と何も変わらない。というのと、あらゆることはすべて消えていく、というのと、その両方の手触り、という感じか。


終盤は革命(というか、五・三〇事件)が勃発して、登場人物たちは皆それぞれほとんどそれまでの地位も金も失くすか危うい情況にまで追いつめられ命の危機にまでさらされる。物語が終わって、その後の彼らがどうなったかはわからないが、おそらくいつかは、死んでしまっただろう。この終盤はなかなか凄いけど、でもこういう物語でなくても、ただひたすらダラダラと前半部分が最後まで続いてくれても良かったのだけど。