movix亀有で、クリント・イーストウッド監督「ジャージー・ボーイズ」を観る。あれ?この俳優って、前からこんな感じだったっけ?というくらい、クリストファー・ウォーケンクリント・イーストウッドの風貌と仕草をたたえて映画の中に存在していた。


映画の出だしで、まだ誰が誰なのか、誰がこの映画の主要人物で誰がこの後フランキー・ヴァリになるのかが、さっぱりわからない冒頭の段階から、クリストファー・ウォーケンだけが完全に、こりゃ地元のやくざの親分だな、とわかる感じで、床屋の座席に坐っている。


この映画はほんとうに、僕は久々に、見ているあいだはただひたすら楽しくて楽しくてしょうがない、という感じで二時間強観終わってしまったのだが、物語の要の部分において、何度か、ぐっと心を初心に戻されるというか、はっとさせられるのは、クリストファー・ウォーケンが画面に登場してきたときだ。


イーストウッドの音楽映画といえば「バード」があったけど、あの映画にクリストファー・ウォーケン的な人物がいただろうか?僕の記憶ではたぶんいなくて、主人公がよるべなく移ろい、最後にただ死んでしまうような、ほとんどサウンドトラックだけが映画を支えているかのような映画のようにも思えて、しかもそのサウンドトラックもチャーリー・パーカーが残した吹き込み音源に当時のバックトラックを上被せした「偽録音」だったわけだが、でも「バード」は当時、僕はまだ大学生になったばっかりの頃だが、わけがわからないながらも夢中で観たものだが、本作がその映画を彷彿とさせるかといえば、クリストファー・ウォーケンを思い起こして、いや、そんなことはないかも、と云える。


チンピラ稼業から、バンドを興していき、レコード会社と契約して、やがてスターダムへ…という流れはじつに楽しく、うっとりと、ひたすら楽しんで観ていられる。やがて、メンバー内での揉め事が浮上してきて、カネの問題や不仲の問題が出てきて、地元の頼りになるボスがちょいちょい出てきてくれて、主人公は「ジャージー魂」を発揮して、同郷人として、仲間を見捨てずに、俺は粛々とやっていくぜ、的な決断を下すという、そのあたりの展開も控えめながらも手堅く力強い感じで描かれていて、やがて終盤の感動的フィナーレへと向かう。やっぱ、バンドっていいなあ、レコード会社と揉めるっていいなあ、仲間といざこざっていいなあ、女性問題っていいなあ、ツアーがしんどいっていいなあ、などと、芸能に関するあれこれがひたすら楽しくて、でも最後の結論としては、男はやっぱり、クリストファー・ウォーケンだな、と思わせる。


でも、この映画観ていても思ったし、前に開高健の自伝(耳の物語)を読んでいたときも思ったけど、ある時間の流れをずっと追っていくとき、それがいつなのかが、見つづけていくとわからなくなってしまって、映画でも本でもそうだけど、何年か経ったとか、何十年か経ったとか、そういうのってわかろうとしなければわからないものだと思った。耳の物語なんか、20代から50代に至るまでの話なのに、ざーっと読むと数年間くらいの話かな?とも思う。いや、あれだけエピソードがすし詰めで、じょじょに身体も心もぼろぼろと朽ちていく話で、そう感じるのは読んでる自分の読解力がないだけなのかもしれないけど、でも何もかもが出来事の並んで運ばれてくるかのように感じられて、それは映画でもそうで、やっぱり時間を描くのは難しい。十年、二十年の月日は、感じさせることはきわめて難しい。自分の娘を成長させて、その姿を捉えれば、後付けで月日の経過を説明したことになる、というくらいのものだ。とくに評伝とか、自伝とか、伝記的な物語で時間を表出させるのは難しい。出来事と時間の堆積とはぜんぜん違うものなのだろう。そういった、伝記や評伝が描くのが難しいのは、対象となる人物ではなく、流れた時間、というか、その人物に流れた時間、描いてる人に流れた時間、それぞれのミックスの難しさなのか。単に一方的に思い出して描くだけだと、何十年が十分の一くらいに圧縮されてしまうのではないか。


今、ネットで調べた。ジョー・ペシって、この人か!映画を観ていて、あれ、あの人だっけ?と思ったのは、ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカで眼に拳銃を突きつけられそのまま殺されたあの面白いおじさんで、でもそれはバート・ヤングだった。ジョー・ペシも同じ映画に出てたけど、でももっと汚くて悪そうな、どうしようもないチンピラ的な感じの役者ね。雰囲気はちょっと、麻生太郎に似てるかも、と言ったら、麻生太郎をほめすぎか。