金曜の夜、酒を飲みながらジム・ジャームッシュイヤー・オブ・ザ・ホース」をDVDで観てたら大興奮状態に陥り、立ったり坐ったり、うろうろしたり、声出して笑ったりと、落ち着き泣く忙しい。これはもう、観て歓喜に震えながら泣くしかない。ジャームッシュの映画としてどうとかいう話ではなくて、かつ、インタビューの内容がどうとか全体的にどうのとかも、ほとんどどうでもよくて、ただひたすら、ステージでの演奏シーンが素晴らしい。クレイジーホース。なんつー素晴らしいバンドなのか。ステージの真ん中へんで、ギター二人とベースとが寄り集まって、まるで居酒屋で鳩首つき合わせてるみたいな、そして轟音のなか、ひたすら演奏が続く。いやこれはもう、言葉でこうして書いても、月並みな表現でしか言えないのだけど、なんという、愚かでバカな人たちなのか。この者ども、これほどの愚か者たちが、五十歳過ぎて、こうしていつまでも演奏し続けていることに、ほとんど神の祝福そのものというか、啓示のようなものを幻視してしまう。まじで感極まる。年取ってるのにすごいとか、そんなバカなことを云いたいのではない。すごいとかすごくないとか、そんな悠長な感想の余地などない。この音楽があまりにも確信に満ちて、致死性のガスのようにどこまでも広がっていって、自分をはるか彼方に置き去りにしてしまい、自分がただの虫けらでしかない事実を、喜びとともに再認識させてくれるのだ。すごい。なんて青臭い若々しい文章なんだろう。やばい。最高だ。ロックというもの、ここにあり、その云い伝えはまことであった。どうやらこれで、まだしばらく元気で生きていけそうだ。なんか、助かっちゃいました。ほんとうにありがとうございます。ああ良かった。


ダニエル・シュミットの映画が今年の夏にレトロスペクティブとして上映していたことを昨日知った。スマホだの何だの人並みに持っていて、面倒くさいことにそれなりに時間を費やしているくせに、こういう大事な情報をきちんと取れてないというのは、いったい自分は何をやってるのかと思ってがっくりする。


テレビを付けたら、宮沢りえが。宮沢りえ…。もしかしてこのまま、あと十年か二十年後に、なんか、森光子みたいな感じになってしまったら、それは困る。。でも、宮沢りえが観たいという理由だけで、宮沢りえの出演している映画を観たい。でも、たぶんつまらないような気がして勇気がなくて行けない。


そういえばたしか、先週だったか、久々に成瀬巳喜男乱れ雲」をCSで観た。始まっておそらく三十分後くらいの途中からだったけど。それに、若い頃の森光子も出演しているのだが、なんか、こういう感じ…。愚かな、すくわれない人間。作り手の悪意を一身で受け止めているかのような、ほんとうに浅はかな、こういう登場人物というのが…。


そういえば昔、僕が子供の頃、たぶん小学生か中学生くらいのとき、水前寺清子が嫌いだったことを思い出す。愛称がチータというだけで、何か得体の知れぬ苛つきを感じた。テレビモニターに映る姿の、その歌い方も髪型も、目を背けたいような、神経生理的な拒絶反応をうまく制御できなかったものだ。でも今日、たまたま武田百合子の本を読んでいたら、上野の水上音楽堂で、水前寺清子が歌っていたという話が出ていた。ああ、そうかと思って、もう四十歳を過ぎた僕のなかで、生まれて始めて今、水前寺清子は許された。


それはともかく、「乱れ雲」の司葉子である。そういえば、先々週、久々に小津「小早川家の秋」がCSで、やはり途中からたまたま観たのだが、司葉子がうつくしくてうつくしくて、世間の若い美しい女性で、女優や俳優になる人でも、こんな風に映画作品に残る人というのは、おそらくほとんど居ないのだろう。だいたいが、街中のその辺を歩いているのと変わらず、振り返ってももう誰もいない。しかし司葉子だけは、いつまでもうつくしい。


しかし、数年ぶりに観た「乱れ雲」の司葉子は、おや?と思うほど若さに翳りがあって、けっこう思っていたのと違った。今更ながら、やはり「乱れ雲」はドロっとしていて、薄暗く…しかし、そうだった。今こうして書いていて、まざまざと思い出した。久々に観た「乱れ雲」は、やはり凄まじいほどの傑作であった。僕はたしかそれで、外出も出来なくなって、終わりまでテレビの前に釘付けになっていたのだった。でもその感想はまた後日書きたい。でもそのためには、最初からもう一回観なければ。というか、もう一回観たい。