シネスイッチ銀座ジャン=リュック・ゴダール「さらば、愛の言葉よ」を観る。


ゴダールの映画を映画館で観たのは2005年「アワー・ミュージック」以来十年ぶり。さらに、3D映画を映画館で観たのは1984年頃かな?小学生か中学生かのとき観た「ジョーズ3」以来何十年ぶりである。


しかしこれ、かなり面白かった。ぼやっと予想していた中での、もっとも面白い感じのものを現実にみた、という感じだった。しかし、それでもやはり内容には重たいものがあって、ああどうしてなのか、という気持ちで会場を後にせざるを得ない部分はある。


まず3D映画の面白さがとくに最初ものすごい。その技術が面白いのか撮影がヘンなのかよくわからないけど、なにしろとにかく、もう何もかもがバラバラというか、こんなに見ているもの一つ一つがバラバラに錯乱して断片化しているもの、はじめて見た、という感じである。


まず、3D的な人間が、まともなフォルムをしていない。これが面白い。興奮する。狂ったような部位の積み重ねで出来ているかのようで、主人公の女性とか、その友達の子とかの、頭の小ささとか全身がぐっとこちら側にある感じとか、もういきなりそのままこの場にいるようにも見えるのに、各パーツのつながりはまるで狂っているみたいな、何これ??みたいなある意味酷い絵がいっぱい出てくる。すべての尺度がおかしいようにさえ感じる。


カメラも、ゴダールって元々こんなだっけ?というくらい、妙に地面に対して傾斜したような、ぐるーんと回って他所へ向くみたいな、おそろしくいい加減というか深く考えるのをあえて拒否みたいなシーンばかりのようで、異常な不安定感、切り取られたフレームのとくに下部分をはっきりと描かないがゆえの足許のぐらつき感を強く感じさせる。室内では裸身の下半身アップが画面上下を遮るようにしてふらふらと歩き回り、背景にはデカイ液晶モニタのざらざらとした古い映画のシーンのとくに女性の感情発露のシーンがバックライトのように光っていて。すごい投げやりというか、何かの失敗ではないか?というくらい見辛い二つのシーンの重なりとか、もう何を見ているのかよくわからなくなる。


そしてたぶん世界中探しても劇場用映画でこれ以上過激にできる人はいないだろうというくらいのバリバリなデジタルノイズ。映像もサウンドも、はっきり言ってマジで酷いと言いたくなるくらいのズタズタ感。良い悪いではなくて、良いも悪いも全部があるのでその落差が酷いのだ。でも単純な話、始まってから最後まで、ずっと眼が離せなくなる。これほど「現代的」な、これほど「我々と地続きな」映画は、ほかにまったく存在しないと思ってしまう。ある意味、無名の誰かのブログを見てるみたいだ。いつかどこかで、それだけで空気を震わせている息遣いそのものを見ているみたいだ。


内容は、とても重くて、いつもどおりだと僕は思った。すなわち、二十世紀の問題を今もまだひたすら問題にしなければいけないという、そのことに忸怩たる思いを感じながらも、まだ百年前からある問題に対して引き続き向き合わなければいけない、まさにそういうことで、なぜいつまでもこうなのか、いい加減、もうちょっと進化できないものかね?でもそこをまだ、つまりひきつづき、向き合わなければいけない?向き合うとか、もうそんなの、まあスイスの波止場。海がきれいだよ。船はいつでも、昔から今までずっと船だな。それでまあ、犬、犬でいいよ、ということでもある。いや、ここではじめて犬、ではないのだ。そんなのは最初からそうなのだ。でも、犬を撮るよと。まったく何の夢を見ているやら。爪をカチカチ言わせて。あわててご主人様を探して呼び求めて。お前は。


これから心臓の止まるのが恐ろしいよ、どんな感じで死がやってくるのだろうな。まったくこれまで、どのくらいの子がお前より先に死んだと思っているのか。まったくお前たちは、死が来る、死が来る、死が来る。ナチス親衛隊(SS)。「理由はない!」


天気が良いときと、曇りと、雨と、雪と、全部あったな。地面が濡れている。ワイパーがぐいぐいと動いている。光りの反射。


シネスイッチ銀座。来たのはすごく久しぶりとだと思うけど、いつ入替制になったのか?最近はどこも、みんなそうなったな。それにしてもシネスイッチ銀座なんて、自分の中ではいつでも新しくてキレイな映画館のイメージがあるけど、今ではもうすっかり古ぼけた老舗映画館というのが相応しいのだろう。