寒さが緩みはじめると、嬉しさよりも不安をおぼえる。気温変化、気圧変化の両方に身体が現在適用中のままで処理負荷が上がって、胸から上だけで宙に浮かんだままで歩き回っているような感じになる。


代官山のアートフロントギャラリーで「浅見 貴子 個展  光合成」を観る。絵のなかで色の諧調でいうところの、淡いグレーから白へ至るあたりのうつくしさがとても良くて、しかし大作の迫力あるまさに黒の打撃、渦巻くような容赦のない黒と絵肌の力強さも素晴らしかった。


木というのは、高い木であれば、ある程度の距離をとって、下から見上げたときの形として見えるわけだが、木を見るというのはしかし、大抵の場合そうではなくて、全体的にはどうなっているかわからないものの、ある量感の一部がぐっと目の前に迫っているそれを見ることになる。木というのは現実的に見た場合、そのほとんどが宙に浮かんでいる。もちろん地面から生えた幹があり、そこから枝が分かれて、無数の葉が付いているのだが、実際にはそうではなくて、目の前に突き出た枝や葉の集積、何事か言い表せないようなある量感をもった、何らかの有り様が見える。それが見えると同時に、それ以外を覆い隠す。だから見るというけれど、見えるとは、見えなくなっているようにも見える。


単なる思いつきだが、たとえば視神経をいじって遊べるような薬物とかが、もしあったとして、視覚から脳で認識するまでの過程を、まるでDJのように、すごくピッチを遅くしたり速くしたり、木を見たときの認識の変容、見えると見えないがめまぐるしく移り変わっている時間そのものを手で触ったりすることができたら、もしかするとこれらの作品を観ているときの感じに近いのかもしれない。