もう、今日は最強にいい天気で、外を歩く以外の選択肢は考えられないような無抵抗状態の一日。ひたすら歩いて東京拘置所の脇を通り抜けて荒川沿いを歩いて、千住新橋を渡って図書館に立ち寄って重たい本を返したと思ったら結局また同じくらい借りたりして、北千住から曳舟に移動して「鳩の街」へ。永瀬恭一「もぎとれ 青い木の実を」を観る。鈴木荘という建物の二階、如何にも昔っぽい急な階段を昇って奥まった部屋へ行くと、内装を施されたこじんまりとしたギャラリー空間があるので靴を脱いで上がると、眩しいような明るさに満ちた慎ましくも好ましいサイズの作品たちが静かに架けられている。作品と空間との調和がとてもいい感じで、窓が開いていて、外からの喧騒というほどでもないほんの少しのざわめきめいた音も聴こえてくるような中で、自然光と照明光の程好さ、気温の心地良さなどの諸条件下で、それらの色彩や筆致の痕跡をみているのはとても、良い悪いみたいなことではなく、ぼーっとそこにいて観ているだけみたいにいい感じで、しばらくの間小さな室内をぐるぐる歩き回っていた。


会場を出て、向島百花園に少し寄って草木を眺めて名前など色々確認したりして、やがて東向島駅から電車に乗って墨田を離脱。久々の店に行ったら混んでいて、ざわざわとした周囲の音を聞きながら、一日の疲れがぐったりと椅子にしみこんでいくような、酒一杯のゆったりと全身に回るのを風呂に入ってるみたいに感じていた。隣のテーブルを囲んでいたのはお父さん、お母さん、娘二人?のおそらく四人家族で、すごく仲良しで、正直僕は店にいる間中、隣の人たちは職場の知り合い同士か、先生と生徒みたいな関係だろうと思っていたのだが、あとで妻に聞いて、ああなるほど家族か、そういえばそうかと思ったのだった。お父さんはほとんど僕と同世代かちょっと上くらいか。あんなに大きな娘が二人もいるなんて、、というか僕にはお母さんと娘の区別もつかない。そんなものだ。なにしろあれだけ楽しげな仲良し家族だったら、傍から見たら何が何だかまるでわからない。楽しい時間を過ごすというのはいちばん良い、というのは、それは結局、誰の追従も許さぬ確たる歩みだからだ。つけ入る隙がないというのか。前向きで楽天的で、攻撃性も防御性も兼ね備えている、楽しんでいるというのは。そして、それにしても野菜の味わいの深みがいいのだ。塩の加減というより皿ごとの足し引き感覚、全体的につつましいながらもここぞというときにはグッと主張するメリハリの付け方など、味わってるこちらが誤解も含めて勝手に想像してしまってそれを大切に思ってしまうようなものが常にある、というのが、他とは違うということで、しかしそれは、次もそれを期待する、ということでは必ずしもないのだが、行く度に、ああそうそう、ここはほんとうにそう、と思えて、それがマンネリとかお約束ではない、新鮮な驚きになっているというのがポイントである。のろのろと時間が経過してコーヒーまで終わって会計して店を出たら、もうずいぶん夜も遅く、帰り道に見上げた桜が今日一日だけでほとんどなりふりかまわずぼろぼろとふきこぼれるようにひらきはじめていて、ある意味明日にはもう終りかも、とさえ思うほどである。