先週の土曜日に吉祥寺「百年」で観た、只石博紀『季節の記憶(仮)』夏篇について。冒頭から、カメラがぶっきらぼうな感じに、ほとんど無意志な感じで景色を捉えていたと思ったら、そのままゆらゆらと浮かぶように持ち運ばれる。おそらくハンディタイプの小さなカメラで、人々の移動と共に、録画ボタンが入りっぱなしのままみたいに、めまぐるしく上や横や下の景色を見続けて、やがてピクニックシートの敷いてある場所の草むらの上にドンと置かれて、やはりその場で静かに前方の景色を見ている。


カメラの、持ち運ばれるときのゆらゆらとした視界と地面に置かれたときの静止した視界との強い落差が、まず印象的。とくにカメラが地面に置かれた瞬間のガツンとした衝撃は、時間と空間にくさびが打ち込まれたかのように感じられる。固定と浮遊の並列状態。置き去りにされたかのような静止状態でしばらく目の前を見続けていたと思ったら、再びふわっと持ち運ばれて、ゆらゆらと頼りなく徘徊して、その一連の流れが、独特のリズムを形づくっているように思えて、あ、これは何かあたらしい感触。という印象を感じながら観ていた。


やがて集団が川べりまで移動して、水ぎわで遊び始めるあたりから、じょじょに驚きが増し始める。凄いと思える作品を観ているときの、よろこびと混ざり合った激しい心拍数の上昇と緊張を感じ始め、川べりから再びピクニックシートのところまで戻っていくあたりで興奮状態となる。


たぶん川べりから離れてピクニックシートのところまで歩いていくシーンあたりで、ようやく「これはもしや、シナリオらしきものがあるのかも」と、ぼんやり気付いたのだが、つまり僕はそれまで本当に、普通に遊んでいる人たちの現実的な時間をそのまま撮影していると思っていたのだが、しかし待てよ、上映時間30分のうち、まだおそらく10分か20分くらいしか経過していないと思うけど、もしこれが単なる現実時間をそのまま撮影しただけのものなら、どうもおかしい、これだけ短時間のうちに、自然な集団の気の赴くままの行動として、めまぐるしくウロウロと移動するようなことがあるだろうか?だらだらしているようで、じつはそうでもないのじゃないか、と思い始めた。これだとまるで、「自然ではない」→作りモノっぽい。みたいな感じに言いたげだが、それが逆に「自然ではない」→「すごい!」となった。前述した川べりから再びピクニックシートのところまで戻っていくところでの、各人がだらだら歩いているところなど「うわー!これ映画映画!!」と思って興奮状態となったのだ。


あとのトークショーで、登場人物が役者であること、3テイク分の撮影がされたこと、最初から最後まで移動の流れなど大雑把にではあれ決められていたことなどを知ってかなり驚いた。たしかに、あとで冷静になって、よく思い出してみると、なるほどそのようにルールを制定して、何度か試すことで、あのようなとんでもなく奇跡的なものを切り取ることもできるのかもしれないと、頭の中の理屈では想像できるし、たぶん二回観たら、一回目よりも、作品内に敷かれているそのルール性がはっきりと感じられるかもしれない。しかし、作品の作られ方というのは結局、作品のすごさの説明にはならなくて、結果的にあの映像に映っていたすべての出来事の、ほんとうにそれが映ったということの驚きと、かけがえの無さ、そのことへの歓喜が消えることはない。作品に映ってくれて良かった、ということもそうだが、たとえそれが映らなかったとしても、そして実際には映らなかったことがほとんどなのだろうが、しかしどうやらその実在を信じられるということ、それがそのようであってくれて良かったという、大きな喜びをもたらしてくれる意味で、ほんとうに、こういう作品というのは、それを観てどうのこうのと云うよりも、まさに作品と一緒になって、その出来事がこうして定着されたこと自体を祝福したくなるようなものだ。


あと、下記は個人的な余談、というか、どうでもいいことですが、僕も先々週くらいに会社の人主催のバーべキュー大会があって、同じフロアにいるから顔は知ってるけど面識はないし一度も話したことはないという、ほとんど初対面の人ばかりの場に紛れ込んでいたのだが、そのときその場に若い女の子がいて、その人ははじめて見る人だったが、最近現場に入場した人かな?くらいに思っていた。で、しばらくしてその子がたまたま近くに来たので話をしたら、なんか変で、どうもおかしいな?と思ってよくよく話を聞いたら、なんとその子は今日の会の参加メンバーの娘さんで、11歳なのだそうで、それを知ったときは正直無言のまま頭の中で「ええー!?」と言った。そして自分の「見る目」の根本的な欠如を感じたものだが、そのあとこうして『季節の記憶(仮)』夏篇を鑑賞して、冒頭で最初に出てくる女性も若い子だったけど、この子はいくつくらいかしら?もしかすると、あの赤ちゃんのお母さんかも。いや、でもあの抱き方は違うか。などと思っていたら、あとのトークショーで、その子は撮影当時15歳だという話があって、ここでもまた自分の見る目の無さを痛感した。というか、この変な反復は何か?と思った。映画の中で、みんながマシュマロを食べているあの場所の向こうに、たぶんもっと豪勢なバーベキューをやってそうなやたらとリッチな感じのテントが見えたが、あの感じも妙にデジャヴを見ているような感じがした。