Multi Purpose Vehicle


実に、ブログに書くことが無いのだけれども、まあ、それは今に始まったことではないけれども、しかしここ数日、ブログを書く気持ちの欠乏がひどい。ブログではない文章なら書けるというか、まだ気が向く。しかし、これはいったい何か。小説とはそもそもどういうものなのだろうかと、僕が思うに、とりあえず何か、少なくとも持続的なもの、という感じで考えている。まずはそれだ。だから仮にもしやりたいとすれば、ある一定の時間を占める体験。それを作りたい。持続的なもの、いうところがポイントで、これが毎日毎日コマ切れになってしまうと、もう、かなりウンザリするので、こうしてブログとかも周期的にイヤになってくることがある。もっとズラーっとひたすらダラダラとした感じじゃないと、不味いソバみたいにブツブツした、こんなものの何がいいのかと仕舞いには腹が立ってくる。


やはりこう、何か、小説とか、言葉で書かれたものでも、音楽でも絵画でもそうだが、そのプラットフォームは基本的に何でも良いというか、言葉なら言葉、音楽なら音楽にしか出来ない、そのプラットフォーム独自の何かがある、というのはそれは当然だろうけど、しかしプラットフォームが何だろうが、それは土台に過ぎないので、それを基にある何か得たいのしれぬ、途方に暮れたくなるような収集のつかなさ、再現の無さ、けじめの無さを、立上げることが重要なので、というか、そういう意志というか、続けてしまう有機的な作用がまずあって、そのためにとりあえず選ばれたプラットフォームをしっかりと踏み付けて利用している感じが必要と思うのだが…それはこれみよがしに乱暴な態度を取るというようなことではなくて、目的のために形式を冷静に把握して利用するという意味だと思うのだが、それは踏み台なのだから、重要なのはそれを踏み台にしたときに、まるで昆虫が遠くの枝に乗り移るときのように、必要な脚力が充分に踏み台によって支援されたかどうか、その力のスムーズな遷移の過程が残像のように残ることの成功に賭けるというか。そのようにして本来プラットフォームは利用するべきであり、つまりプラットフォームとは自分の身体のことだとも言える。身体は大事にすべきだが、身体を大事にするために生きるのでは、本末転倒なので、身体なんて結局物質だし、人間なんてきわめて大雑把な組織に過ぎないので、あるプラットフォーム上で何かの経験媒体を作り上げるなんて言っても、できることなどたかが知れているわけだから、そこは謙虚にして、しかしなるべく多くのたくさんの細かい単位で驚くべき複雑な出来事を生成させられるように、とにかくそのように身体を準備させておくための方法をまさぐるために、お前がせいぜい大事に思っているらしき時間を、そのために使えよという。


ところで、マルチ・パーパス・ビークルとしての私。まだ小学校に上がる前の頃だと思うが、僕は自動車図鑑を見るのが好きで、未来の自動車、マルチ・パーパス・ビークルのイラストをいつまでも飽きずに見続けていたらしい。


マルチ・パーパス・ビークルのことは、今でもぼんやりと憶えている。多目的自動車。丸いカプセルのような形。地上を走る、空を飛ぶ、水の中にも行ける、一台の車で、どこにでも行く。森の中か、公園のような場所で、お父さんとお母さんと、当時の自分と同い年くらいの子供が、マルチ・パーパス・ビークルのそばで談笑している。マルチ・パーパス・ビークルと、幸せそうな家族のイメージ。でも、たぶんその当時の僕が、マルチ・パーパス・ビークルの何に惹かれていたのかというと、マルチ・パーパス・ビークルという名前。その言葉。発語した際の語感である。なんて言い難い、なんて意味のわからない言葉なのか。僕はただちにその言葉をおぼえてしまって、部屋をウロウロと徘徊しながら、しきりにマルチ・パーパス・ビークル、マルチ・パーパス・ビークルと繰り返し呟いていたらしい。当時おぼえたのは、自動車図鑑で知った言葉ばかりだった。マルチ・パーパス・ビークルコンバーチブル、セダン、ステーションワゴン、クーペ、アルファロメオアストンマーチンリンカーン・コンチネンタル…。母親に連れられて、僕は家のすぐ傍の国道沿いに立ち、目の前を高速で走り去る車一台一台に、意味もわからぬままそれらの言葉を投げつけるかのようにひたすら命名し続けた。


マルチ・パーパス・ビークル。その言葉を思い出すきっかけとなったのは、数年前の一時期買い集めていたJeff millsの、Purpose Maker時代のレコードであった。パーパスメーカー。「目的をつくる」人生も半ばを過ぎて、どうやらその言葉が、あたかも啓示のように、復活の呪文のように、ふいに浮かび上がって来たように思われた。


一時期ほど聴きたいとは思わなくなったけど、その登場人物は今でも、Jeff millsをやはり別格だと思っている。それにしてもある音楽を好きで好きで仕方がなくなると、どうしてもそれに付随した言葉に、強く惹き付けられてしまうのが彼(彼女)の癖らしい。もちろんJeff millsの音楽に歌詞や明確なメッセージは無いが、しかし曲のタイトルも、音楽家としての名前も、レーベル名も、皆言葉で、それらの言葉の、意味するところが全部剥がれ落ちてしまって、あの連続的な打撃のような音の周囲に散りばめられた、まるで子供が誕生日に部屋の壁に貼り付ける紙製の飾りみたいなものにしか思えなくなって、でもそれがそれだからこそ何度も何度も口の中で繰り返しそれを言いたくなってしまう。パーパスメーカー、パーパスメーカー。パーパスメーカーに与えられた場所にマルチ・パーパス・ビークルで行く。こういうのは、単なる言葉の陶酔感、というだけなのだろうか。でも言葉の陶酔感の何がいけないのか。陶酔しないことの方が、いけないことじゃないか。パーパスという言葉が、彼(彼女)と繋がって、その登場人物は自組織のユニットリーダーとして、それを平然と許す。身体の一部がパーパスという言葉になってしまっても、それで全くかまわない。こうして少しずつ色々な部分を、今までの私から明け渡してしまえればと思う。