「奥村さんのお茄子」


起きたばかりのぼんやりとした頭で「ユリイカ」2002年7月号 特集*高野文子に掲載されている「奥村さんのお茄子」を読み始めた。そしてまたくりかえされる高野文子的世界の衝撃…。


今日思ったのは、たぶん僕のなかで、高野文子が描く人物の女性の感じが無意識レベルの根本的な部分で,、ある意味、性的に惹かれるものがあり、それが多分に作品から受ける印象に影響しているような気もしないでもない。何か自分の中の、女性、というものの原体験的な存在感が、そこに描かれているような感じがしてしまうのだ。


冒頭のシーン。定食屋かなんかの座敷に、冴えない中年の男が飯を食っていて、その背中合わせに坐っていたヘンなウェイトレス的な格好の女性が、唐突に男性に話しかけるところから、ああ、なぜ高野文子的な女性は、こういうさえない中年男性が好きなのだろうな、とある種苦々しいようなイラつきに近いような感覚をおぼえる。こういうのは、いっつも高野文子はそうなのね。出会いの困難さ、という部分は、いつも回避されているのね。回避というか、現実的な抵抗が無い領域で話を進めるのね。でも、だからこそ、きっといわゆる「恋愛」ではないのね、というのが、最初からはっきりとわかる。


「恐れ入りますが、私の正面に引っ越してきていただけませんでしょうか」


直後から衝撃の連続。いや、じつは二回読んでわかった。一回目は何が起きてるのかよくわからない。女性は、靴を履いたまま座敷に正座している。その靴をスポーツ新聞で隠すのである。男性がスポーツ新聞を取ると、その足が見えて、男はぎょっとする。こういう固そうな靴で、正座ができるものだろうか。固そうな靴の裏側を見せて座布団の上に坐っている女。


男のあと、女も店を出る。上を見る。真っ白な喉と首元をあらわにする。「わたくしとっても遠くから来ました。」「六月六日のお茄子」「思い出してください」


次の場面。男の住まいにいきなり現れる女。借りた雑巾で靴の裏を拭いて「いやーこの足にはほんとうに参りましたよ」「てっきり爪だと思ってたんですよ とりはずしするものだとは恐れ入りました」


つまり、靴も、メガネも、ウェイトレス的な格好も、全部が「整形」であり、彼女は人間ではない何かだということがここで示される。


メガネについて「これなんて、どこがどうつながってるかさっぱり」耳を指差して「ほら、ここんとこ穴あいてますよね」「てっきりこん中にさし込むんだとばかり思ってましたよ」「それもくっついてんの?」「はい。とれません」


「わたし見えないとこはけっこう雑にできてます」


おそらく今年もっとも衝撃的なセリフを今日読んだと思った。


この物語。お話としては失われた記憶を探索するというところからじょじょに話が展開していき、最後は六月六日のあるときその瞬間同時に発生していた何人かの同時性が一挙に示され、かつてそれが在ったということの驚くべき存在性を鮮やかにあらわすラストへと展開されるのだが、そういう一本の筋の部分はそれとして、何しろ高野文子的な登場人物はいったいなぜこれほどまでにばたばたと余計なことをして、そのことばかりに注意を向けさせようとするのか問い詰めたくなるほどで、このあと、うどんを使った映像装置で過去の記憶を再生させる場面でも、いや、うどんを使った映像装置ってところが既にとてつもないのだが、このうどん再生シーンの素晴らしさ。「うどんじゃなくてテレビを見て下さい」というコマの見下ろしたような構図の素晴らしさはどうだろう。再生される映像の異様なクローズアップ画面の、いったい誰が何を何の意図で撮っているのかさっぱりわからない感じや、そのあとの貧乏毒素入りナスの意味のわからなさ、文脈的な無意味さはどうだ。


ビールを進められて「ご心配なく わたくしおなかはすきません」「口に入れて入れられないことないんですけどそれやるとわたくしただのごみ箱です 明日の朝、臭いです」


奥村さんの結婚前の回想のシーン。これはいったい何??と言いたいくらいの、とてつもなく芳醇に熟成発酵したワインのような幸福な過去の記憶のようなこれは何?「あは、あは」「あは」「あは」「あは」


「どっちも六月六日の続きなんですよね」


いや、意味がわからない。それ何?ということなのだが、この作品はもう、僕はこういうのを読むと、良いだの悪いだのはどうでも良くて、とにかく僕はしばらくずっとこの作品のそばにいますから。この作品の傍らで暮らしますから。といいたくなる。結局作品なんてそういうものではないか。近くで暮らすのか、自分に関係ないのか、そのどちらかだ。


最後、メガネ怪我するというのもなあ。。しかしこのマンガは、ほんとうに凄い。自分はマンガを読んだ経験がかなり少ないので、他と比べてどうとかはよくわからないのだが、何しろすごい。とにかく絵が上手いし、それでいてこのお話の作り方の複雑さ。一本の筋を説明するのではなくて、細かいどうでもいいことがぎっしりと詰まっていて、それらが全体をきしませ揺り動かす。これほどのんびりとした雰囲気でありながら、現実というものの凄みに対してひたすら真摯に波長を合わせようとする。その息づかいというか、身体に来るような切迫感というか。


そして一度や二度読んだだけでは読んだことにはならないような複雑さ。いや、二度も三度もそれをくりかえせることの幸福と言った方が良いか。


ちなみに今回読んだ「奥村さんのお茄子」は「幻の初出バージョン」で、刊行されたのはこれとは違うやつとのこと。そっちはまだ読んでないのであった。