へレン・シャルフベック


芸大美術館で「ヘレン・シャルフベック」展を観る。まったく知らない画家だったけど、何日か前から、上野のホームのでかい看板で掲げられている絵をみて、これはわりといいんじゃないの?と思って試しに行ってみたら、予想をはるかに越えてよかった。これはあくまでも個人的にだけど近年観たなかでもおそらく特筆に価する展覧会。まあ、空前絶後に凄いとまで言う気はないし、このレベルの良い画家というのは、まだ知らないだけでヨーロッパ全域で探せばまだまだいくらでもいるのかもしれないけど、でもやっぱりこれだけ確かな腕をもって二十世紀前半を生き切った画家がいたということを知るだけでも、やはり心を揺さぶられるものはある。凡庸といえば凡庸かもしれないが、しかしこれだけの仕事が残されているなら充分だとも云いたくなる。


188〜90年代の初期時代、色価の決め方と形態の色面単位的な捉え方が、来るべき何がしかへの目配せというか、不安と緊張をはらむような、きっとこのままでは済まないことを不安と共に待っているかのような作品群が並んでおり、既にその時点で悪くないと感じていたが、それが20世紀を迎えて、一瞬過去へレイドバックしたかのような、唐突にも線描の割合が増え北欧〜ゲルマン的気質が噴出したかと思いきや、絵肌をゴリゴリと削るその絵肌への拘泥や厚塗りなどテクスチャーの冒険を重ね、短期間で圧縮されたかのような模索が試みられた末に、1900年代にはいり突如としてその作風が確立する。その流れ、自分個人としては、かりに初期作品に限っても充分に鑑賞に値するのだが、しかしこれならおそらく「シャルフベック」という名前が冠された作品として観る必要はないのだろうなと思われるような、とくに誰の手がけたモノであっても問題ないような意味での、しかし質としては、とても良い作品が並んでいるという感じなのだが、それが20世紀の狭間でぐっと変容する。(というかある意味当時のフランス前衛は徹底的に形式の問題だったのだということをあらためて実感する。まさに、あの感じであれば、作者は誰でも良かった。)


おそらく「シャルフベック」と冠されたイメージをもっとも特徴付ける作品群は00年代、10年代に固まっている。その後、20〜30年代は比較的少なく、晩年とも言える40年代にまた秀逸と呼びたい作品群がまとまってある。当時のフランス潮流をしっかり意識していた初期時代から、やがて自分の作風へと至る過程において、強く参照した対象としてはおそらくセザンヌ、モネ、ピサロ、あとはゴーギャンからドニ、ヴュイヤールへと至るナビ派潮流を感じさせるとともに、ムンクなどの北欧的気質ならびに明確なフォロー意識がわかるホイッスラーなど、多くの画家を想起させる。それに加えて晩年の、一見無縁としか思えず唐突極まりないようなエル・グレコからインスパイアされた一連の作品群など、ちょっと興味深い側面もある。(しかし正直この作品群でエル・グレコという作品作用に対して新鮮な発見を見出したように思えた。)


総じて僕としては、この画家の二十世紀に入ってからの仕事はすべてとてもよいものに思える。というか「つまり、こういう絵でいいんですよ」と言いたい気持ちを強く持つ。ホイッスラー展を観たときにも感じた「もし絵画史が今とはまた別の流れだったら」の世界を、まさに観ているような気がする。しかし、やはりというかその笛の音はか弱いものだとも思うし、いつかは潰えるかもね、とも思うのだが、でもこの世界が僕は好きである。


というか、もっと言うと僕は、仮定の話で、もしこの僕が画家としてとりあえず完全にmaxなポテンシャルを発揮して人生を過ごしているとして、それでこの身体における可能性のギリギリのテンションで作品を作っているとしたら、あるいはこういう作品を作っているのではないかというわけのわからない妄想にとらわれていた。そのくらい、各作品の細部が、まるで自分の描いたもの、まるで自分の問題にしている出来事をあらわそうとしているように思えてならない。うわ、これは何、、と思って一瞬戸惑う。まあ、百何十年前にも何十年前にも何十年後かにも、自分みたいな人間がいるのはあたりまえだし、そいつらが凡庸だったり何かの能力に長けていたりすることもあるわけだから、こんな「出会い」も別に驚くようなことではないだろうが、しかし、この画家はほんとうに、何とも面白いことを考えているな、まったくその描く身振りが何年もそれをしていない自分に重なってくるだなんて、バカバカしいを通り越してどこへ行けば良いのかわからないという感じだ。