シミュラクル


まず失望があり、その後、意図したはずの方向とはまるで無関係な角度から、妙に滑稽なばかばかしい様相を呈した何かを、立場なくアイロニカルに自嘲気味にならざるを得ない気分の中で見返したときの、あらためて発見される一連の事態全般をシミュラクルと呼ぶのだろうと、やや勝手な理解というかイメージとして保持しているのだが、ちなみに自分にとってのシミュラクルという概念の参照元は初期椹木野衣で、それに自分の勝手な思い込みを何重にも上書きしたものだが、しかし今後は、結局はシミュラクルなんて技術の過渡期に生じた一時的な現象で、旧バージョンのバグみたいなものに過ぎないのかも。シミュラクルというものは技術進化によって今後消えてしまうものか。人間はもはやテクノロジーに対してある距離をもってそこからお世辞や皮肉も言えず、ただどうもどうもも言えず、口から出る言葉はただありがとうだけ、ですらなく、そういう立居地の距離感自体がなくなるということか。シミュラクルは、ある意味ヒューマニズムみたいなものだったのかも。人間の共有感覚を基盤にぼやっと浮かんだ、ほんとうじゃない幻想的なイメージ。それを元手に、逆にこれまで、人間とテクノロジーが「人間的」な関係をうまく結べていたのかもと今更思う。決して仲良くもないし話も合わないけど、それなりにお互いを見合いながら暮らしてきた夫婦だった。お互いに美しいものを見合っていたからね。でももうお仕舞いだ。そういう幻想の終りが来る。


でも今後自分の仕事だと、生産性の高い労働力維持のためのマネジメントシステム構築とか、そういうのをやるとか、もうますます最近仕事がシミュレーションゲームに近づいてきていて、数年前から氷のように触ると火傷するような空虚が降る。旧来と、新しさ。それはどちらも重要ではなく、いや重要であっても良いが、もはやそのレベルでは、優先順位を決める時点での、氷で火傷の空虚が吹きすさぶのだから、旧来と新しさとをそれぞれ定義付けできず、もはや結果としてどちらが先にヒットしても良い。もちろんそのすべて全体というか、検索方式、この自分の受動態をそれなりに面白いと感じている部分がある。