ジョン


八月の週末は、家に居ることが多かった。妻の風邪が治らないというのもあったが、自分としても、なるべく家にいて引きこもっていたいような気分だった。引きこもって、だらだらと時間の流れていくだけみたいな休日の過ごした方というのは、ふつうは、もったいないと思うようなものだろうが、でもむしろ、そっちの方が良いというか、後で考えやすいというか、その時間で退屈したり鬱屈していたりというのも丸ごとひっくるめて、何となくその方が良いような気もする。


保坂和志「未明の闘争」をはじめから読んでいる。


池袋で篠島を見たという話、妻の忘れたお弁当、古本屋街、スナックというかキャバクラみたいな店、玄関のチャイム、篠島が来た、チエホフの「学生」の話、ペテロとワシリーサが重なる、自分の家の周囲の道について、若い娘のなかに老いが内包されている、保土ヶ谷駅、菊名、ブンを飼える賃貸住宅、置き去りにしてきた時間


アキちゃん、葬式中の会話、アキちゃんの話をする母、散歩に行きたいポチ、ポチは十六歳まで生きた、ジョン、中学生のとき、過去の自分に会って犬を散歩に連れて行けと言いたい、喪主の挨拶、デジャ・ヴュ、予知夢、未視感、野口さん、佐倉さん、桜の紅葉


各つながりの部分に注意しながら読んでいる。主人公の、頭の中でとめどもなく考えている過去の記憶の湧き出てくるのと、編集者の友人やホステスの女の子や菊名の家を借りようとする妻や菊名の家のオーナーの奥さんが、ばーっと目の前にいるのが、読んでいて混ざり合わさる。


それにしてもなぜ、このようなことなのか?これは、一体何か?


たぶん「私が犬や猫や動物たちに無関心に生きるなら、私は日々ジョンを散歩させなかった私から遠ざかることになる。」から、きっとこれは書かれているのだと、とりあえず思いながら、続きを読み進む。しかしそんな仮定は、後になったら自分の中からどんどん忘れられていくだろうとも思う。


主人公の記憶の話の、いつまでも際限なく書かれ、それを読者が際限なく読めるものと、主人公の目の前にいた他人の感触、その分厚い不透明感と、それでも面白味や安心感や、不快感や違和感との混ざり合って読めるものとの混合のやり方。それが、すごくよくできていると思う。読んだのはまだ、全然最初の方でしかないが、上記の流れのなかで既に、アキちゃん登場の前と後で明らかに感触が変わるような感じがする。というか、アキちゃんが葬式でデカイ声で話をしていて、そこから母親が、アキちゃんが家に来てホッシーを待って夕食や風呂まで入っていった話を笑いながらする場面と、散歩に行きたいポチの場面が、時間も空間も丸ごとまるでDJのMIXのごとくクロスフェードされ、そのままポチ、そしてジョンの話から、中学高校時代の記憶へと繋がっていくところなどきわめて戦慄的。読んでいて、これはほんとうに、このなかでもの凄いことが起きているわとつくづく思う。