東京水辺ライン


夏期休暇。一人で一日家にいた。「未明の闘争」は横浜でシーバスに乗って、山下公園で降りて、中華街に行ってごはん食べるあたりまで読む。出来事というか、扱う単位の細かさが、じつに素晴らしい。要素同士が活発に打ち合い跳ね回る。動く文章である。無意味に動くだけの文が、ただ投げ出されているようにも感じられる。たとえば、ぜんぜん関係ないけど、同じ酒をずーっと飲み続けていると、大体飽きてくるし、口の中が単調になってくる。そういうときに、少しだけナッツ類を食べると、ああ、この香ばしさが実にアクセントになるなと思うし、それどころか、窓の外から、ふっと誰かの吸ってるタバコの匂いが、窓をあけている部屋の窓から入ってきて、その匂いを嗅いで、ああ、なんか香ばしくていいな、とさえ思ってしまう。僕は非喫煙者なのにも関わらずだ。なので、そのような組み合わせで単調になったり動きが止まってしまうのを周到に避けるという、そういう地味だが高度な技術というものを感じる。というか、で、それに加えて、シーバスに乗るというこのシチュエーションがすごくいい。水面すれすれ、なのだ。僕もこう、水際感というか、水際の感じというか、水に落ちそう、みたいな、そのすれすれ感を、すごく書きたくて書きたくて、と思っているようなところがあり、このシーバスの場面は、かなり食い入るように読んでしまう。シーバス船体についての説明の仕方も「しかしシーバスはふつうの船というより真っ平らの低い船体だった。」と、じつに平易に書かれていて、そうだな、たしかに…。と思う。客室に入ると「窓側というより海側と言いたいくらい海面が近い。客室はデッキより低いから海面がずっと近くなった。」とある。おお…そうなのか。僕はたぶん今まで一度もシーバスに乗ったことは無い。このとき僕は、僕もシーバスに乗りたいと思っているのか、こういう風な、シーバスに関する文章が好きだと思っているのか、自分でも判別しがたい。おそらくどちらとも言える。ちなみに東京水辺ラインには、乗ったことがある。浜離宮公園から浅草まで、隅田川を行くやつである。しかし、東京水辺ラインという名前は、いい名前なんだか悪い名前なんだか、よくわからない。