「遠い触覚」刊行記念対談


昨日、仕事帰りに池袋まで行って、ジュンク堂保坂和志×西川アサキのトークを聴く。コミュニケーションというのは、お互い共有できる枠の中で通じ合うようなことではなくて、何の共有形式もないのに、一人だけ、声の大きいヤツがいて、なぜかそいつの言ってることが、どこか相手先に伝わってしまうような、みたいな話(かなり意訳というか、そんな意味のこと)が、最初の方にあって、それ以降も、基本的に両者の違いが明確な感じに思えて、保坂和志と西川アサキのそれぞれすごくわかりやすい特徴的な部分がよくわかって、ある意味まるで折り合わないけれども、いつもとはちょっと違う保坂氏のトークが聴けたという感じで面白かった。


やっぱり、記憶の奥底の、性欲と不可分の根源的本能みたいな部分の、さらにその向こう側を…とか思うと、もうそこはすでに、解脱とか禅とか、悟りとか、そういう世界になってしまうのだとして、そして、爬虫類とか、虫とか、ネコとかの脳に行ってしまうのだとして、それはそれでも、たしかに、、と思うが、しかしやはり人間が爬虫類の前で爬虫類の真似をしているような、そういうハマッた情況になってしまうのを想像をしている時点では、まだそれを考える域に達していないのか。微動だにしないワニをじーっと見て、そういえばその話のとき、自分はアリのことを思い出していた。アリのスピード感と運搬能力も、たぶん人間の感覚で感じ取るのは無理で、あれもあれでまた、別の時間と空間のなかに生きている有機体だと思う…とか何とか。で、身体は丈夫であるのはたしかにきわめて重要。車もパソコンも動きが快調でなければつらい。でも身体のスペックは、本当にばらばらだ。かなしくなるほど、皆が別の乗り物に乗っているのだ。でもそれでもなお、食べるとか、飲むとか、出すとか、そういうのを死に近い行為と位置づけて、そこからでも、そのあたりに近づけないか、とか。


最近、ここ数日、古谷さんの偽日記のかなり初期の方を読み返した影響で、自閉症について考えてることが多い。もっと自閉しないといけないように思う、というか、自閉した内側にもっと何かがあるような気がして、その方向を想像すると、今より少し気分が明るくなるような気がするのだ。