モランディ


東京ステーションギャラリーで「ジョルジョ・モランディ―終わりなき変奏」を観る。


自分の中の勝手な思い込みで、もっと厚塗りの、がっちりとした絵肌の質感で見せるタイプの作品なんだろうと思っていたのだが、実際に観たら全然そうではなくて、ある意味すごく、いわゆる現代的な平面絵画っぽい、と最初は思った。でも観ているうちに、これは!と思える作品が出てきて、次第にひきこまれていく。


絵の具、あるいは白、白系ベージュ・茶系色ということの、これほどの奥行き。画面そのものが、この現実とはまったく別のやり方で、その場で勝手に現実をやっているかのようで、…なんというか、ごく単純に、観ている絵が、その画面のなかで明るい。絵画ではつまるところ、それなら充分だ。それだけで感動する。別に、それ以上のことは何も必要ない。


明るさ、あるいは広がり、とも言えるかもしれない。ざらつき、圧迫感のような感触的なもの、と言っても良いかもしれない。微風が全身にあたるとか、見えないものの充満して、細かく振動している感じとか、とにかくその場に、からだが置かれていて感じられる何かだ。


絵に驚くときは、大体そうだ。目の前の物質の出来事が、頭の中の個人的な記憶に直結してしまうとき、その事態に狼狽する。それを見て「明るい」とか「ざらついた」とか「広がり」とか、そういうのはすべて、自分個人の記憶である。


だから作品に驚いているときは、個人的な記憶がモロに外部と直結してしまって、自分の内側と外側がひっくり返っているような感じになる。…そうやって、料理される前のタコみたいな裏表のひっくり返った姿で、おろおろと会場を歩き回っているだけ。


静物も勿論だが、風景画もかなりいい。画集なんかで観ると、展示されているもの以外でも、もっと素晴らしい作品もたくさんありそうだ。


展示会場の最後に、ドキュメンタリー映像みたいなのが上映されていたのだが、生涯をほとんどボローニャの自宅で過ごしたとか、ピエロ・デラ・フランチェスカとジオットが好きで、それらと自分とを、セザンヌが媒介したとか、そういう話が出てきて、なるほどとてもわかりやすい、と思った。この話のわかりやすさは、おそらく本当にそうなのだろうと思えてしまうようなわかりやすさだ。要するに、そのように生きた人間が見て描いた作品群だということを素朴に信じてしまえるということだ。おそろしくシンプルだ。あれはまさに僕が、そのときの空気のざらつきを、そのまま観ているのだ。