スズカケノキ(2)


朝一で病院に行って、咳止めの薬をもらってからまた出かける。小石川植物園へ。ぼけーっと阿呆面で木だの桜だのをきょろきょろ見回しながら、小一時間ほど園内を徘徊する。出し抜けに視界の半分以上を鋭い緑色の点描が覆ったり、透明な白が降り注いだり、ふわっと浮かぶような白濁したボリューム感が中空にあるのを受け止めたり、なるほど春の植物たちは賑やかで色彩の躍動はすばらしいから疲れた足を引き摺りながらいつまでも歩き回っている。スズカケノキを見上げていると、こうして我々が当然のように感じているこの時間と空間こそ偽で、本当のことはスズカケノキだけが感じているのではないかという気がしてくる。枝の折れ曲がりながら伸びていく先までを目で追っている。根元から伸びる幹と、ところどころから枝へ派生していく様子。当初の計画もなく、途中でやり直すこともなく、ただそのまま、そのように伸びていって、今のような姿でそこに在る。ということ自体が間違いで、それは我々人間の勝手な解釈ではないかと思う。我々はただ単に身体という乗り物に乗ってるだけの大して自由の利かない生き物として、ふらっと一瞬だけここに立ち止まっているだけではないか。木はおそらくその姿、様子、形を見ても何も意味が無い。木はそういう存在ではなく、木は常に最新を生きているだけなのだ。木にとっての時間、それは最新である、ということだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。だから木にとって自らの形は、ほとんど無意味だ。それは単なる排泄の結果みたいなものだ。それを人間が、空間の中で、自らの足場を見つけたハエのように、そこに止まって安心しているだけだ。そういうことと一切無関係に、木は、ただひたすら最新なのだ。だから、こうした世界においては人間はあまりにも悠長だし、勝手な解釈で勝手に喜んでるだけで、じつは空間も時間も、ほんとうは、そのように見えるそこではないはずなのだ。小石川から白山を抜けて千駄木へ。古本屋に寄ったあと谷中霊園を経て上野へ。上野公園は人の頭地獄。蕎麦屋で飲酒。店を出たら空がまだ全然明るいので嬉しい。ふらふらと帰宅。