「JLG/自画像」


些細さをそのままに留め置く。余計な要素を排除して、必要なそれだけで仕上げる繊細。というのは実際、それを生かすためには、かなりの図太さとか大胆さとか倣岸さを必要とする。人間同士がお互いのために空気を読むみたいなのは、繊細ということとは違う。むしろ、そういう空気を無視しないと、そのようには生かせないし、それに気付けない。


電気スタンドの赤っぽい光と、窓からの薄暗い光だけの室内。夜明け前か日没直前くらいの暗さ。遠くのモニターで何かの映画が再生されていて、その周囲は闇に沈んでいる。


いつものことながら、おそらく自然光だけの光で撮影された画面が、気が遠くなるような美しさ。


影の部分はどこまでも暗く、部屋の中だと、ほとんど真っ暗になっていて、たとえば「パッション」で絵画をセット内で実際に再現させようとするシーンでは、ああやって照明を作ることで何にせよカラヴァッジオ的なロマン派的な絵に近くなるが、単純に自然光だけの光で室内を撮ると、どれだけ陰影が強くてもそのようにはならず、全体がざらざらとした質感を伴うグレーのノイズを含んだようなものになる。それで、室内と外との境界も少し曖昧になって、逆にひとつの世界の手触りがはっきりとしてくる。「パッション」でもスタジオ内の光と工場や外を撮影している光があまりにも違って、外に出ると本当に外に出たかのように心がすっとしたものだ。


ぼそぼそと喋るゴダール本人の声。書斎があり、仕事場があり、外の景色があって、湖のほとりがあって、雪に覆われた森の中の道がある。アシスタントがいる。客が来る。


湖の波打ち際。ざぶざぶと波が押し寄せている。水際を波が洗っては引き、洗っては引く。


黒っぽい、冬の格好をした、帽子を被った中年男性がとぼとぼと雪道を歩く。


曇天である。遠くにかすかな夕日の残滓。


登場人物の気分に付き合っているのか、まったく無関係に別のものを見ているのか、よくわからない。映画だし、喋ってる相手の話は、一応聞いている。感情の変化に気付けるくらいには。


重要なのは何か。どうすれば良いのか。今、取り掛かってる仕事があって、乗り越えなければいけない問題や、厄介ごとや、折衝ごとがある。その「私」を観る。


映画監督が登場する映画って、ほかに何があるだろうか。フェリーニの「8 1/2」とか、トリュフォーの「アメリカの夜」とか、仕掛中の仕事に追われてイライラする人が主人公のやつ。もっと何か無かっただろうか。


そしてテニスを!こういうシーンを入れるから、皆が、ゴダールのファンになってしまうのか。だからその「私」を、皆が心配するし、元気になってくれると嬉しい。ああ、良かった。これを観て良かった、と思う。約束を思い出す。希望の言葉を言ってほしい。日々の怒りと苛つきに耐えつつ、仕事を続けてほしいと。


ちなみにこれを書いてる今日の日中は、気がおかしくなるほどの、五月の初夏の晴天であった。光はぶっ飛んでいて、影の黒は、あまりのボリューム感で、ほぼ物質化していた。サトザクラの木が突っ立っていて、その影がまるで、木が吐瀉しているかのように芝生を盛大に真っ黒に汚していた。


そんな気の狂ったような光の狂騒の中、部屋のカーテンを閉めて、これを観ることこそ正しい選択。


夏かあ…。