砂丘


群像に載っていた新人文学賞受賞作「ジニのパズル」を妻が読んだらしく、僕にも読めというので、何となく読み始めたら、最初は「ふーん、どうだろうねー?」とか思いながらも、ぐいぐいと直線的な筆致で面白く、最後まで読んでしまった。抵抗と蹉跌とその後、の構成順序が並べ替えられているのが、なかなかいい感じだった。それで、読み終わった余韻のまま、何となく何か、映画を観るとしたらどれかと考えて、アントニオーニ「砂丘」を観た。冒頭での、学生運動のシーンとか不動産デベロッパーの大企業のシーンとか、始まってすぐに、ばたばたっと描かれて、急に飛行場が出てきて、逃亡するマーク・フレシェットが乗り込んだ軽飛行機のプロペラが回って、あれよあれよという間に離陸してしまって、空撮された砂漠が続き、ダリア・ハルプリンの乗った、砂漠の一本道を走る乗用車と、悪ふざけのように交わりあい、やがて二人が砂漠をだらだらと一緒に散歩して、寝そべって、だらーっとした時間が流れていくのが、ひたすら続く。中盤からはもう、徹底的に映画的な世界しかない。ひとしきり時間を過ごしたあと、ふたたびマーク・フレシェットは冒頭の世界に戻って、ふたたびプロペラ機がゆらゆらと飛ぶ。そして終盤へ。…ふわふわと飛ぶ飛行機を、あるいは二人が戯れている砂漠の景色が、すごくゆったりと、たっぷりと、だらーっと撮影されていて、それを観ているだけで楽しい。だいたい、そういう感じの映画ではないか、と予想して観てみたら、だいたいそんな感じの映画だった…などと、思いたかったのかもしれないが、作品とは結局、はじまるとその世界だけでいっぱいになって、やがて、その世界だけで閉じる。だから、そう易々と別の何かと繋がるようなことはない。結局「ジニのパズル」の主役の子は、この映画の世界へと、逃れられるわけではなかった。オレゴン州カリフォルニア州だから、空間に限ってだけは、隣合ってると言えるのだけれども。