吉増剛造展


国立近代美術館で「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」を観る。…これは、凄かった。有無を言わせぬものがあった。ただひたすら、差し出されたものを食べ続けるほか無いような、静かで無慈悲なレストランにふらふらと迷い込んで、得体の知れない食材を、延々と咀嚼、嚥下し続けた感じだ。これはちょっと、なかなか、利いた風な口でもっともらしくわかったような気になりたくないというか、もしそんな感じの感想が脳内に生じたら直ちに打ち消したいようなもので、ひたすら未解決のまま、もやもやが渦高く積みあがるがまま、気付いたら閉館時間になって、完全に時間切れ終了という感じでばたばた美術館を出る。


おそらくもっとも重視すべきは「怪物君」なのだろうと思う。この作品の計り知れなさには驚くべきものがある。よくもまあここまで…と、思わずあきれてしまう。あるいはいつまでも、こみあげてくる笑いを、噛み殺し続けている。この作品だけが、ということではなく、おそらくこれまでのあらゆる全過程が、ここに凝縮されている感じがして、相当凄まじいことになっている。このありさまを前にして、一体どうすればいいのかと途方に暮れる。途方に暮れるしかないような作品を前にする経験というのは、それほど多くはないのだ。


これらの出来事の、下地というか根拠の部分に「朗読」という行為が現実に在って、その前提だとすれば、取り付く島のないように見えるばかりのこれらの在りようも、一応何かの根拠付けを得たというか、引っ掛かりに掛かったような感じには思えるが、でも、そうだとしても、ここではすでに朗読だの音楽だの絵画だのが、ほとんど死滅した世界の出来事に近いようにも思われ、いや、ひとつひとつは死滅していなくても、もう時代が進んで、各ジャンルがけじめなく融合しかけている時代の、ずるずると引き続く何か。人間の時間の単位さえやぶろうとして、床下のさらに下まで沁み込み続ける何かのようにも想像できてしまい、銅素材を用いた作品なんかを媒介にして、若林奮的世界へともつながっていくのだから、おそらくここに、もう人間の理解を越えて勝手に育つ植物の生態のようなものが、野放しで展開しているとも言えるだろう。


展示会場の最後は、大野一雄の舞踏と朗読とのコラボレーション映像であった。僕は、大野一雄の舞踏をこれだけまとまった時間じっくりと観たのがはじめてだったのだが、というか、そんな気はなかったのに、結果的に延々と観てしまったのだが、大野一雄は、あまりに素晴らしく、僕は時折、こみあげようとするものを抑えながら観ていた。映像は1994年のもので、大野は当時88歳である。吉増剛造という人も、その外見がじつに役者的というか、まるで二人の役者が芝居をしているようであった。


舞踏というもの自体をよく知らないのだけれども、映像を見る限り大野一雄は舞踏の時間とそうでない時間、つまり「素」の時間との区別が、ほとんど曖昧になっているように感じられる。というか、「それ」がとりあえず終わって、吉増とふだんの言葉で会話しているように見えても、ちょっと油断(?)すると、もういきなり入ってしまって、いきなりその場にぐにゃりと倒れこんで、着物がべろんとはだけて、どうしようもなくなってしまう。…これはもう、昔読んだ福田和也の「いつでもいく娼婦」そのものではないか。それはもう、商売とそれ以外との線引きがなく、飽くなき仕事があるだけで、仕事というよりは、ただむさぼる、それだけの、ひたすら吸うだけの、絶望的な、帰還先のない、戻る前提の無い、支払いを受取る準備さえしない、ひたすらバカな振る舞い。線引きがないのは、昔は憧れたけれども、時間が経てば、その本当の過酷さを、その後知ることになる。でもそういう過酷さ自体に心は動かされない。あくまでも、その「いってる」姿に、ただ心を奪われる。ぶわっと泣きたくなる。


ただしかし、その大野一雄をじっと見詰めながらぶつぶつと朗読を続ける吉増剛造の方が、よほど計り知れないとは思った。何しろ、これはひょっとして、もしかしたら大して、何もないのかもしれないぞ?という疑惑も含めて得体が知れない。しかし何しろ物量が凄い、物量と、あとコントラスト、文字の大小の違い。あとサインペンの色の違い。正直、これだけでもう、充分に得体が知れない。ポラロイドカメラの裏側の黒面に書かれた銀色のペンの文字がギラッと反射するだけで、そこにもう只ならぬものがあるように思えて仕方がない。これは一体なにか。この、身を投じて進んで騙されたくなる感じは。