モツ


檀一雄「檀流クッキング」が本棚にあったので、これいつ買ったんだっけ?と妻に聞くと、いつか忘れたけど前からあったみたい、と言う。モツ料理の箇所を読んだら、猛烈にモツが食べたくなって困る。モツと言えば戦後すぐの闇市の頃から安酒屋の定番的ツマミのように思われるし、それらのもくもくと煙を上げている風景がただちに想像されるけれども、これが書かれた昭和40年代の時点ではまだ、ふつうの家庭であつかう食材としてはあまり一般的ではなかったのだろう。とても美味しいのだから、まず先入観や偏見を捨てなさい、とか書かれている。


内臓が美味いのはなぜなのか。内臓なら、韓国料理だろうがイタリアンだろうがフレンチだろうが汚い串焼きの店だろうが、すべて美味い。肉なのに魚介的というか、糞尿的、腐敗的、汚わい的な場所に近いというか、何にせよ食べることの原始的な愉悦感が妙に高いのがモツである。もっと言うと、あれは、それを口内に入れて咀嚼嚥下しているときに、それを本気で美味いと思っているのかどうか、自分の感覚がよくわからない。ただ機械的に、それがあるから噛んで飲み込もうとする雑食性動物の本能だけがむきだしになってる感じがする。食べた感想とか、そんなものあるかよ、ただ焼いて喰うだけだ。酒で流し込んで、さらに喰う、、そしていつも、そのときの空白の時間を、後で思い浮かべて、ああ、また食べたいなあ、また行こうかなあ、とかぼんやりと思い浮かべるだけだ。


そして駅前の、大したことない焼肉屋へ…。そして、食べ過ぎた。