京都


京都のMさんの日記が、いつも面白いのだが、昨日から今日にかけてがとりわけ素晴らしくて、ひたすら読み耽ってしまい、妻に話しかけられても、まともに応答できないくらいである。そして今回に限らず、彼の文章にふれて感じるのは、その書き続けられている膨大な文章のなかに登場する、おびただしい数の登場人物の誰もを、それらを読んできた僕たちはきっと、彼ら全員のことを、等しく好ましいと思っているだろうということだ。僕は、彼ら彼女らの誰もをたぶん好きで、文中に彼らが登場すると、ふかく嬉しいのだ。たぶん一人として、嫌いにはなれないのだ。そこには、どうでもいいと思えるような人が、一人もいないのだ。たとえ特定の誰かが、凡庸な自己顕示欲と自己保身に満ちた、なんら見るべきところのないような人物として、あるいは周囲を困惑させるだけの、はた迷惑な人物として描写されていたとしてもだ。それが憎むべき、嫌忌すべき性格の存在だとしても、それでも彼らは、この文章によって編まれた世界の住人の一人だというだけで、彼らは例外なく、好ましい愛のなかに、何の企みもなくもっと虚しくはかないものとして、ただそこにそのまま生きているとしか思えず、おそらく誰もが、その中において、彼らの苦しみや悩みを抱えつつも、それ自体、幸いなままで、彼らはこれからも、文字となって日々、得体の知れぬ誰かによって読まれ、認識され、刻々と理解され、承認され続けているかのようなのだ。なんだか京都は、それを読む僕にとって今、ほとんど夢に近い場所だ。