両国のアートトレイスギャラリーで「絵画の体験を考える」(松浦 寿夫、境澤 邦泰、青山 大輔、好地 匠)を観る。
新宿へ移動。二人で十何個か生牡蠣を食う。(青山大輔の作品に、巨大な牡蠣の殻のようなイメージの絵があった。牡蠣を食うのはそのこととはたぶん関係ないが、まったく触発されなかったわけでもない。)そのあとツタヤで色々と大量に借りる。
表参道へ移動。青山ブックセンターで立ち読み。ブルーノート東京で「大西順子 Plays Tea Times」2ndを観る。強力!
帰ってから借りてきたVHSからとりあえず「一条さゆり 濡れた欲情」を観る。甘くうっとりと官能的であることと、覚醒的であることの両方が、映画の体験にはある。そのことが交互に、あるいは同時に押し寄せてくること自体のふしぎさを、ひたすら確認し続けるというのが神代辰巳を体験するということのように思う。
大西順子の演奏も素晴らしかったし、今年をふりかえると自分の音楽体験は、まさに菊池成孔一色だったように思う。というか、年々新しい音楽に鈍感になっていくなあと、そういう自覚があるのだが、菊池成孔のラジオ番組からかなりたくさんの音源を知ることができた。
フランク・オーシャンなんかは、最初聴いたときほんとうにピンと来なくて、まったく理解できなかったのだが、最近はくりかえし聴いている。それは2013年11月オンエアの、 フランク・オーシャン「スーパー・リッチ・キッズ」歌詞一曲解説を聴いたことの影響が大きい。音楽って、たしかに、とくに若いときは、こういうものに真剣に耳を澄ますことが、聴くっていうことだったかもしれないな、と思い出したりもする。
しかし、フランク・オーシャン。暗い。陰鬱で、寒々としていて、聴いてると、その時間全部が、薄暗く染まる。でも聴くっていうのは、たしかに、そういうことだったよね、と思う。