この世界の片隅に


亀有で「この世界の片隅に」を観る。妻が観ようというから見たのだが、どんな映画なのかは、戦時下の広島の話だということはわかっていたが、あとはほぼ何も知らない状態で観た。こうの史代の原作も読んでない。評判が良くて期待できるような映画を観に行く前は、期待感で楽しいにきまっているが、それと同時に、微妙な、ああ、なんか面倒くさそうみたいな億劫な気持ちもうっすらとはあって、きっと観終わったら、ずーんと沈んだ気持ちになるのだろうな…みたいな予想もあって、それで、まあだいたいそんな感じ、だったわけでもなく、作品そのものは、すばらしかったというか、まあこれ、よくこんなすごいものを作ったな、と驚くような内容で、こんなの、はじめて観たぞ…という鮮烈な体験そのもので、でも最後の方はもう、はーーっとくたびれて、終わったら、どよーんとなって劇場を後にした。


「しかし、やっぱり人間はきっと、今までと同じようにこれからもばかだから、僕たちも僕たちの次世代も、その次もこの先もずーっと、きっと人間は、いつまでも不幸なままだろうな。」


「だいたい、女だよ。女は、これだからいやだね、なんであんなに、小動物のようにぼさっと居て、その場で悟りすまして、素直におとなしく、実直に耐えて、それなのに最後にきたら、まっすぐな炎の、垂直に突き立つように、芯の奥から猛烈な勢いで怒り出してさ。こういう呆れるほど気の長い、ばかみたいにじっとしてその場にいて、しまいにはその場で最初の通りに、一貫した道理を盾に怒り出すんじゃ、話にならないじゃないか。こういうのは、まさに女特有の態度だよな。ふつうで、なんて、そんなに立派なことですかね。ふつうなんて云うのは、ある意味、気が狂ってるってことなんじゃないの。」


という、ものすごい偏見と短絡に満ちた言葉が、ふいに自分の頭の中のどこかから聞えてきた。僕が言ったんじゃない。別の誰かの声だろう。


なんでそんなことを書くのか。そんなことを言うと怒る人がいる。驚くほど単純に怒る。その単純さこそが、救いなのだ。その単純さのおかげで、僕もこうして毎日平穏に暮らしていられるのだ。だから、感謝しているのだ。


そもそも、憎まれ口を言わなければならないほど、大した映画だろうか?よくわからない。要するにこの映画は、僕にはよくわからなかったんじゃないのだろうか。